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アンバランス僧侶

ここのところ立て込んでいる。

朝に、夕に、真夜中に。ことばを捏ねて、文章をつくる。この連休は、その繰り返しだった。時々、クチュ(トイプードル)を抱っこする。ほろほろと崩れてしまいそうなほど小さくて、華奢なからだはあたたかく、しっかりと鼓動を響かせている。その音律に共鳴するように、静かに深呼吸すると穏やかな気持ちになる。朝が来るとさんぽして、気づけば夜になっていて、後ろ髪を引かれるような想いで眠りにつく。

BGMでは、お坊さんのラジオを流している。これがとにかくおもしろい。京都の蓮久寺の住職である三木大雲と出家して千原靖賢となった芸人の千原せいじの『大雲・せいじの坊僧ラジオ』。番組に届く人生相談のメールを紹介しながら、二人の僧侶が説法をまじえながら答えてゆく。

お坊さんのお話なので、基本的には有難いことばに満ちている。釈迦の物語やお経のことばを引用しながら、人としての在り方を見つめ直し、こころが清らかになるサプリメント。ただ、それだけでなく人間の業、弱さもしっかりとそこに存在することを確かめさせてくれる。

有難い人のことばには、どこか堅苦しさが含まれる。森羅万象を肯定してはいるものの、そこに人間が抜け落ちているような感覚だ。脆さ、至らなさ、醜さ、臭さ、そういうものに蓋をして「はじめからそこには無かった」ように振舞った時に、きゅんと息が浅くなる。

この二人の僧侶の話は、それがない。むしろ、「ゆっくりと息を吐け」と言ってもらえるような安心感がある。それが心地よい。今日聴いた内容は、2025年に大災害が起こるという都市伝説に怯えた相談者から届いたメッセージを紹介していた。それに対してせいじは「アホか、そんなもんに怯えてるんは暇なんじゃ。パートせぇ」と一蹴した。痛快である。

それをフォローするように、三木和尚が「実はこのこともお経には書かれているんです」と言って誠実なトーンで人としての在り方を説く。実際にお経の中で大災害を予言している箇所が出てくるのだが、人々の在り方で災害の規模は抑えることができるという。この話も非常に興味深いのだが、せいじは訝し気に聴きながら「胡散臭いことを言いやがって」と言い放つ。

わたしが感心したのは、この二人の相反する在り方の調和にある。相手のことはお構いなしに「嘘つけ」や「ほんまか?」とか言えてしまうざっくばらんさにこころ穏やかにいられる人もいるはずだ。三木和尚のように真正面から救いの道を提示することも強さであり、やさしさとなる。一方で、浮世離れした精神世界に土足で上がり込み、人が言えないことを自然と述べてしまえるせいじの在り方もまた強さであり、やさしさなのだ。世の中には「パートせぇ」と言われてた方が救われる人もいるのだ。

そのアンバランスさを楽しみ、笑い、そこで生まれる奇跡的な調和に感心する。救いの方法は一つではなく、人の数だけあるのだかもしれない。そんなことに気付かせてもらえる番組だ。

夜、娘夫婦がタラバガニを持って来てくれた。クチュの前足よりも太い立派なカニの足。妻と二人で鍋にして、最後は雑炊にしていただいた。

日々はあっという間に過ぎてゆくが、確かにしあわせな一日を積み重ねている。






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嶋津 / Dialogue designer
「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。