文章と建築
いろんな種類の文章を書いている。
コピーを書いたり、インタビュー記事を書いたり、概要をまとめたり、言葉を定義する文章だったり、手紙を書いたり。どの作業も楽しくて、同じ〈言葉〉でも思考のプロセスや機能する領域が違うことがおもしろい。
文章をまとめている時、「お、いい感じに書けそう」と思う瞬間がある。まだ形になっていないけれど、頭の中で〝なんとなく〟造形が見える瞬間。それは、頭の上に絶妙なバランスでかろうじて立っているジェンガを乗せているような感覚で。勢いよく動くと、がらがらがっしゃんっと文章の建築物が崩れてしまう。だから、移動する時はそっと静かに。頭上にはジェンガなんて乗ってないのにね。
文章は建築物に似ている。柱が必要だし、梁も必要だし、接合部は要で、骨格が頑丈じゃないと積み上げることはできない。そうした時に、文章を設計から考えることは決して無駄なことではない。論の展開や、表現の省略は、基礎構造が盤石でなければ成立しない場合が多い。反対に、そこさえ押さえておけば、ある程度「遊び」を入れることができる。
文章を整理し、収斂させていく中で、基礎を固めたり、柱を立てたり、木組みをしたり、時には釘を打ったりネジを締めたりして要をつくっていく。その途中は、まさにジェンガのような状態なので、隙を見せるとがらがらがっしゃんというわけだ。
この頭上の建築物が、身体性と関わっていることがおもしろい。崩れないよう、崩れないよう、そろりそろりと移動する。間で誰かに話しかけられても、頭上の建築はあっけなく崩れてしまう。
何事でも量をこなすということは大事で、頭上の建築物に基礎を与え、要を固くして文章として形にすることを続けていると、コツを掴むことができるようになってくる。最初は設計について考えていなくとも、頭上の建築をつくり続けると、だんだん基礎や柱が見えてくるものだ。
設計図を書くことも覚えはじめる。そうすると、別の構造の建築もつくりたくなってくる。そのようにして、文章の幅は広がっていくのかもしれない。
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noteに書く文章は嗜好品で、誰に頼まれたわけでもなく、好きなことを書いている。一見無駄に見えるこの作業が、実は巡り巡って頭上の建築設計に良い影響を与えている。「無駄」を楽しめることほど、豊かなことはない。