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とある町役場で、4630万円を一人の男性の口座へ誤送金した事件が話題になった。

男性は振り込まれたお金のほぼすべてをオンラインカジノで使い込んだという。「考えられない」と世間は大賑わい。誤送金した町役場もそうだし、それを使い込んだ男性もそうだ。夢の中みたいな話だ。

男性は逮捕されたらしい。他人のお金に手を出したので仕方がないが、考えてみれば、そもそも“誤送金さえ起きていなければ”彼は逮捕されなかったのである。その間違いが発動しなかったパラレルワールドでは、男性は平穏な日常を過ごしている。彼が逮捕されたのは、突然現れた大金のせいだ。そう考えると、責任の幾ばくかは送金した側にもありそうなものである。

ある日、口座に振り込まれた大金を見た彼は「運命が味方をしてくれた!」と考えたかもしれない。労働も、取引も、保険も、資産運用もしていないのに、だ。「これは神様がくれたチャンスだ」と思っても仕方がない。主観的に人生を生きていると、それくらいの思い込みは自然と起こり得る。

「誰かのミス」を考えるよりも、「ドラマティックな運命」を信じてしまう方が生きていて楽しい気もする。男性は、その大金を元手に博打をした。「増やした後で、元の4630万円は返せばいい」と思ったのだろう。大丈夫、神様が背中を押してくれているから。ずいぶん調子のいい考えだと思うが、マンガや映画を観てきた人は、それが現実に起こり得ると錯覚してしまう現象を馬鹿にはできない。物語には力がある。「自分の人生だけは、どこかそうあってほしい」という願いを責めることは誰にもできないのだ。

他方で、それが世の中への悪意のために大金を使い込んだのだとしたら、それはそれであっぱれな度胸だ。一般的な精神性であれば「困っている人がいるはずだ」と想像してしまえば、そのお金には手を出せない。

まじめに想像してみたけれど、やはりわたしには他人のお金で4630万円を使い込む度胸はなかった。空想なのにつまらない結果になって、少しばかり落ち込んだ。一般的な精神性は、何のドラマも生み出さない。“一般的”というのは、どこに位置していても退屈である。悪事を働くにも、それ相当の器と覚悟が必要なのだ。



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