見出し画像

人間は思考する、快楽は美しい

その編集者は、よく鼻毛を引っ張った。

どうやら、考えごとをする時に癖のようだ。ひとたび考えはじめると、ところ構わずに引っ張る。会議室でも、歩道橋でも、渋谷ヒカリエのカフェでも。忖度なしに指を鼻の穴へ突っ込み、毛を引っ張る。目の前に誰がいようが問答無用で。彼の奇妙な儀式の前では、誰もが平等なのだ。

以前、彼と一緒にとある哲学講義を受けたことがある。正確には、わたしはその講義の進行役を任されていた。都内の大学、蜂蜜の結晶色に染まったイチョウが路地を流れる季節である。来日したオランダ人哲学者が、ドイツ語で経済と思考の関係性を二元論的に進めてゆく。通訳者がそのドイツ語を、同時通訳で日本語に置き換えてゆく。複数の言語と思考が絡み合い、グルーヴを生み、静かな焔が舞い上がる。時間が経つにつれ講義は白熱し、抽象度の高い内容になっていった。

進行役のわたしも内容についていくのがやっとのことだった。空間をサーモグラフィーカメラで覗けば、そこにいる人々の頭部は赤々と滾っていただろう。その時、ふと編集者のことを思い出した。彼はこの難解な講義についていくことができているのだろうか。真剣な眼差しで哲学者を見つめる参加者の中に前傾姿勢の彼はいた。なんと、両手を鼻の両穴に突っ込み、親指と人差し指の先にあらん限りの力を込めて、毛を引っ張っていたのである。彼は深淵なる思考の只中にいたのだ。

わたしは呼吸を忘れた。その光景を目にして、笑っただろうか?いやまさか。決して笑わない。わたしは恍惚の表情を浮かべ、ただただ彼の姿に見惚れた。それは、最上の“思考”であり、雅やかな“儀式”であった。

彼は鼻の両穴に突っ込んだ指で毛を引っ張り、殺された親族の仇を見るような眼差しでオランダ人哲学者を見つめていた。人間は思考する。思考するがゆえに人間である。それは、人間の最も美しい姿であるように思う。わたしは、羨望に近い鈍色の感情を抱いた。我を忘れて“思考”へと没入する、快楽に溺れた彼のことを。

あの日のことを忘れたことはない。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。