血のつながりはなくとも
孫が生後8ヵ月を迎えた。
孫の泣き声は鈴の音みたいで、ぜんぜん嫌な感じがしない。こよなく健やかに響く。笑い声は、明け方に聞こえる小鳥のさえずりのようで、これまた天にのぼるかのような心持ちになる。美しい楽器として、わたしのこころに潤いを与え、穏やかに癒してくれる。
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わたしには血のつながりのある子どもはいない。
その代わり、十年以上共に暮らした妹のような(あるいは友達のような)娘が一人いる。彼女が結婚して、子どもを産んだ。赤ん坊は“関係性”だけで言えば、わたしの「孫」になる。とても不思議な感覚だ。娘と同様、孫もまた血のつながりがない。ただ、これまた不思議なことに、血のつながりがなくともわたしは孫を家族であると感じている。他人の子どもに対しては抱くことのない気持ちが、しっかりと芽生えているのだ。愛する人の、愛する娘。その愛する娘の、愛する赤子。愛の連鎖が、わたしに血のつながり以上の迸るほど熱く、やわらかい感情をもたらすのだ。
家族はつくることができる。血のつながりがなくとも。
だから、結婚していないとか、出産していないとか、そういうことで分厚い雲がかかったように重たくザラついた気持ちになっている人は、見方を変えてもいいかもしれない。家族はつくることができる。そこに愛があれば、その愛が連鎖を生み、流れをつくり、循環すれば、それはもう家族なのだ。わたしは孫の未来をこころから祈ることができる。生物として、自分のいない未来のその先まで想いを巡らせて、彼女が幸福な笑顔に包まれる世界をこころから祈ることができる。わたしは妻からも、娘からも、孫からも、多くのことを学んでいる。そして、その学びはこれからも続くのだ。
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