コミュニケーションの一歩目
自尊心を保てていることと、相手に対して偉そうなことは違う。
自分への敬意は、相手を見下すことにはつながらない。ここがどうも一緒くたになっているひとがいる。あるいは、「リラックスしてね」と伝えた瞬間、横柄な態度をとるひともいたり。
自分に自信を持つことは、ひとを馬鹿にすることではない。相手への敬意は、相手にひれ伏すことではない。文字で書くとあたりまえだけれど、感覚にするとわからなくなるみたい。
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どうやら、そのひとたちは主従関係が好きみたいだ。
どちらかが主で、どちらかが従である。そのひとたちから見える景色のほとんどは二項対立。敵か、味方か。味方であっても、上か、下か。“どちらでもない”という立場が見えない。対等な関係性はまやかしであると信じている。だから、反論されたり、意見されたとき、相手を“敵”だと認識する。
異なる意見は横並びに存在するし、お互いが共有できることを忘れている。
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わたしが心地良いのは、リスペクトし合える関係性。
崇めることも、崇められることもなく、見下すことも、見下されることもない。互いが“わたし”と“あなた”に敬意を払っている状態。そのとき、“人間”を豊かに味わうことができる。
ただ、世の中は「誰に対しても敬意を払う」というひとばかりではない。ならば、誰かにとっての“敬意を払う対象”であるために自分を育ててゆくことは大切だ。磨いたり、積み上げたり。それは、技能だったり、知性だったり、品格だったり。ひとを心地良くさせる笑顔だったり。誰かの役に立つ知恵だったり。わくわくさせる希望を描くことができたり。
目の前の相手を、少しだけ楽しい気分にさせること。その工夫はいくらでもできる。明確な答えがあるものではなく、楽しみながら自分で考えてみる。ひとを喜ばせることが上手になると、「会いたい」と言ってくれるひとが増える。
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その発想がはじまりにあると、きっと偉そうに振舞うことはしない。
横柄な態度をとらないし、ひとを馬鹿にしたりしない。突然、やっつけようとしないし、従わせようだなんて思わない。
「どうすれば楽しんでもらえるかな?」
そう考えるだけで、コミュニケーションは楽しくなる。