朝さんぽでいつもの公園へ行くと、敷地内にあるトイレの前で清掃員が怒っていた。
年齢はわたしと同年代くらい、あるいは少し上かもしれない。「こんにちは」とあいさつすると、彼は苛立ったように「はい」と答えた。そこには男子トイレ、女子トイレ、多目的トイレがあり、それぞれ床は水浸しで泡が浮いていた。おそらく清掃途中なのだろう。「どうしたんですか?」と訊ねると、彼は「流しちゃいけない紙を流す人がいるんですよ」と言った。
「流しちゃいけない紙って何ですか?」
「ティッシュとか、パルプ繊維の分厚いものですよ」
「トイレットペーパー以外の紙っていうことですよね」
「ええ、詰まるんですよね。僕が毎日ここに清掃に来れるならまだしも、数日に一度しか来れないので詰まると大変なんです」
「そうですよね。たとえば、他にも詰まる原因とかってあるんですか?そういうことってあまり知らなくて。ほら、ペットの排泄物を流す人もいるでしょう」
「あぁ、(男子トイレの)和式トイレよりも、多目的トイレの洋式の方が流れやすいです。タンクが大きいですからね」
「そうなんですね、全然知らなかったです」
そのような感じで清掃員の話を聴いていると、彼はだんだん穏やかになってゆき、最後は笑顔になって楽しそうに話していた。
「いつもきれいにしてくれてありがとうございます」
そう言うと「いえいえ、とんでもないです」と明るく手を振ってくれた。ダイアログ・デザイナーは、こういった生活の中で求められているのだと思う。
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年末から書きはじめたこの「ありふれた、しあわせの日常」というタイトルの日記。コラムでも、エッセイでもなく、ただの日記。誰かに読んでもらいたいわけでもないのだけれど、有難いことに読んでくださる人がいる。読んでくれた感想を添えてシェアしてくれる人がいたり、今日はチップをいただいた。ありふれた日常だけれど、読んでくれた人のおかげでしあわせが増えてゆく。
今日のBGMは、ALBATRUSの『ジプシーソング』。もうずいぶん昔の曲だが、ふとした時に聴きたくなる。哲学的な詩と、野性的で軽やかな歌声、ポエティックなメロディ、ソプラノサックスが心地良い。時間がゆったりと過ぎてゆく。
今日も文章を書く仕事。とある商品のコンセプトを考える。ことばを拾い集め、粘土のように捏ねながら。いろいろなカタチをつくってゆく。わたしの仕事場は、ことばのアトリエ。もっともっとことばと遊びたい。
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今日は朝から“餃子の口”だったので仕事が一区切りした後、妻と友人を乗せて王将まで車を走らせた。店に到着して驚いた。駐車場にも入れないくらいの超満員。正月料理が続いて、みんな“餃子の口”になったのだろう。ずいぶん待たなくてはならないが、何せ“餃子の口”なのだ。当然、待つ。いろんな王将を訪れたが、ここの王将は格別だ。Xで、そのようなポストをするとこのようなコメントが届いた。
「大阪北部の店舗ですかね?私が昔通ってたところが圧倒的に美味しくて後に日本一(何の日本一かは忘れたw)の店舗だったことを知りました!そしていつも混んでる」
この店かもしれない。どこなのだろう。何の日本一なのだろう。その店に行ってみたい。SNSのすばらしさは、そういったやりとりがリアルタイムで行われるところ。店の場所を教えてほしいが、デリケートな気分に包まれて(まるで茗荷みたいに)訊くことができなかった。
待った甲斐があるほど、餃子は最高においしかった。ボディがかがやきを放っていた。餃子の数え方が「一枚、二枚…」であることを疑問に思っていたのだが、その理由は餃子には羽根があるからなのではないだろうか。正確な理由は知らない。
向かいのテーブルのお客さんがメニュー表を落としてしまったのが目に入った。その隣のテーブルに座っていたおじさんがかがみ込んで親切に拾ってあげようとする。しかし、なかなか掴めない。苦闘するおじさんの上着のポケットからスマホが落ちる。「バン!」と音を立てて床に液晶画面を打ちつけた。そこにはピュアな親切心しかないだけに、あまりにかわいそう過ぎる。おじさんがいつかこの世界を去る時が来たら、閻魔様には今のシーンを公平に評価していただきたい。
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その後、氏神様を祀る神社に三人で詣でた。
手を合わせてあいさつをして、感謝したり、祈ったり。とても心地良い時間だ。昔から神社仏閣を訪れるのは好きだが、祈りがこれほど愛おしい行為とは思ってもいなかった。
晩年は、手紙を書いたり、祈ったりして余生を過ごしたい。