Pass the Baton
一粒の涙に、永遠が宿る。
青い台の上でワルツを奏でながら、白球は回転する。ラバーに吸い込まれ、火花散るかのように弾いた瞬間、刹那の中に永遠が吹き込まれる。そう、その永遠を追い求めてきた。
玄関口で電話していた妻は、小さな肩を震わせて泣いていた。瞳からあふれ、頬を伝う一筋の涙。その一粒に収斂された記憶は、映写機からこぼれる白い光のように、鮮やかな光景を乱反射させる。テネシーワルツの音楽がどこからか聴こえてくる。
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妻の母、前田房江は日本一の卓球選手だった。「卓球」というスポーツで日本と中国の架け橋となった存在だ。二十六歳まで卓球選手として活躍し、彼女に七年間ラブレターを送り続けた男性と結婚した。義母が卓球に一途であるように、義父もまた義母に対して一途な想いを注いだ。その間に生まれたのが僕の妻、朋子である。
義母は小学生の朋子にラケットを持たせ、一会社員だった義父を社長にまでのし上げた。明るくて、凛々しい女性だった。庭いじりが好きで、渡り鳥は季節ごとに義母が手入れをする庭を訪れた。義母は何より卓球を愛した女性だった。義父と娘は、義母の「卓球」という存在に嫉妬した。愛する妻に振り向いてほしかったし、愛する母にこっちを見てほしかった。
朋子は中学生になると卓球部へ入部した。通学する平山中学校は家の前だったこともあり、義母は生徒たちに卓球を教えるようになった。校長は義母を歓迎した。なぜなら、彼女は日本一の卓球選手だったからだ。学校の体育館で母親が生徒たちに卓球を教えている姿は、朋子にとっては少しこそばゆかった。
朋子が中学を卒業し、高校へ進学した後も、義母は平山中学に残って生徒に卓球を教え続けた。外部顧問として月に七日教えに行けば良いところを、毎日体育館へ通い、生徒たちの白球を打ち返した。それから三十年間、平山中学で毎日教え続けることになる。
朋子は私立高校に進学し、日々、厳しい環境の中で卓球に打ち込んだ。結果的に、彼女は全国大会へ出場する。義母は娘の活躍が何よりうれしかった。だが、朋子にはわかっていた。自分が母ほどの才能がないことを。試合で勝っても「あの子はお母さんが日本一だから」と言われ、負ければ「母親は日本一なのに」と陰口を叩かれた。自分が愛した母の、愛した「卓球」を恨んだことは一度ではない。プレッシャーに押しつぶされ、彼女はラケットを手放してしまう。
その時、あれだけ明るかった義母がひどく落ち込んだ表情を浮かべた。はじめて見る顔だった。その表情を朋子はずっと忘れない。卓球から離れた朋子は、「偉大な母」という呪縛から解き放たれた。
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「最後に何かしてほしいことはある?」
朋子が三十歳の時、義母に尋ねたことがある。還暦を迎えようとする母親と、大きな約束を結んでおきたかった。義母は「ハワイに連れて行ってほしい」とも「老後の面倒をみてほしい」とも言わなかった。
「卓球のコーチをしてほしい」
迷うことなくそう言った。朋子は苦笑いしつつも、義母とその約束を結んだ。その年から、朋子は平山中学校の外部コーチとして生徒たちに卓球を教えた。義母は何よりうれしそうな表情を浮かべた。朋子は約束の十年間をきっちりと務め上げた。
朋子がコーチとして入った平山中学校の卓球部は急速に力をつけていった。いつしか府大会の常連校となり、一公立中学校にも関わらず、卓球の強豪高校からスカウトの声がかかるようになった。選手としての才能と教えることの才能は別物だった。育てることに関しては、義母よりも朋子の方が優れていた。生徒たちが力をつけていく様子を見て、義母の何度目かの青春がはじまった。
人生において、出会いは重要である。ことに多感な時期の出会いは、その後の人生に大きな影響を与える。卓球部にはエネルギーの行き場を見失った者たちが集まった。家庭に問題を抱えた子もいたし、警察にお世話になった子もいる。心を閉ざした子もいれば、世の中を諦めた子もいた。義母と出会い、朋子と出会った生徒たちは卓球を通して、人生に希望を見つけていく。
「人は変わる」
妻は僕にそう言った。出会いによって人生は変わる。平山中学の体育館で過ごした密度の高い時間は人生の財産となる。社会人になり、恩師に会いに来た生徒たちは、義母と朋子に対して声を揃えてこう言った。
「あなたがいたから、今がある」
それは、生徒たちだけではない。僕も、そして、もう一人の若き教師も───
平山中学校へ谷口先生が赴任してきたのは今から七年前のことだった。彼は数学の非常勤講師で、学生時代に卓球経験があったことから卓球部の顧問を任された。やる気があったわけではない。校長からの頼みに、〝仕方なく〟引き受けた。「教師」という職業に憧れもなく、このままこの仕事を続けていくのかさえ迷いがあった最中のできごとであった。
彼はそこで義母と出会う。そして人生が変わる。義母の卓球に対する愛情を肌で感じ、生徒たちが成長していく光景を目の前にして、止まっていた歯車が音を立てて動き出した。
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人生は不思議に満ちている。
谷口先生が赴任して三ヵ月が経った頃、義母は体調を崩した。体がだるく、両足が膨れ、歩きづらさを覚えた。整形外科へ行くと「捻挫」と診断された。何の解決もしないまま、それでも生徒たちに卓球を教え続けた。誰にもそのことを言わなかった。「卓球を休め」と言われることがこわかった。
象の足のように黒く腫れあがった頃になって、ようやく義母は義父に相談した。総合病院へ行くと、余命三ヵ月と申告された。義父は医者の言っている意味がすぐには理解できなかった。検査を受けて、すぐにホスピスのある施設を紹介された。
何がなんだかわからなかった。世界で最も愛した妻が末期癌だと知った義父は言葉を失った。朋子は心がおかしくなった。誰もその事実を受け入れることはできなかった。義母だけは「大丈夫、治してみんなに卓球を教えるから」と言った。
その体で義母は府大会に向けての練習のため、平山中学校の体育館へ通った。義母の病気は家族しか知らなかった。足取りの覚束ない義母を支えながら、朋子は中学校へと連れ添った。門のところまで来ると、朋子の手から離れて義母は一人で歩きはじめた。
「生徒には絶対に言わないでほしい」
義母は朋子にそう言った。かっこ悪いところを見せたくない、必ず治すから。その言葉は力強かった。彼女は、治療を続けることを選んだ。癌は肝臓を中心に八箇所に転移していた。カテーテルの手術を受けた後も、体育館へ通った。ラケットが握れないので、朋子が義母の代わりに生徒たちに教えた。娘がラケットを握る姿を見て、義母は幸福そうな表情を浮かべた。
夏に大きな大会があった。平山中学の卓球部は本選へと勝ち進んだ。彼らの躍進とは対照的に、義母の体は弱っていった。ついに抗癌剤治療がはじまる。朋子は谷口先生にだけ義母の体のことを話した。学校で何か起きた時に、すぐに対応してもらえるように。赴任して三ヵ月のその若き教師の頭は真っ白になった。その治療期間中に近畿大会が開催される。
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「ベンチに行く」
病室での義母の言葉だった。当然のごとく、義父と朋子は反対した。それでも二人は、義母にとっての「卓球」という存在には勝てないのである。今までもそうだったように。ユニフォーム姿に着替えた義母は、義父と朋子に手を繋がれて会場へと向かった。
体育館の中に入ると、いつものように二人の手から離れ一人で歩き出した。義父と朋子は、倒れはしまいかと不安を募らせながら義母の姿を観客席から見ていた。
平山中学校は負けた。だが、義母は最期までベンチコーチを全うした。その姿は美しいほど凛々しかった。義母が亡くなる三週間前の出来事である。「今でも信じられない」と朋子はそう振り返る。
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入院生活に戻った義母の体調は、著しく悪化した。記憶は薄らぎ、意識も定かでなくなることが多くなった。
「朋子ちゃんをよろしくね。とても素敵な人だから」
義母が亡くなる十日ほど前、突然意識が明瞭になった時がある。毎日、朋子の付き添いでお見舞いに来ていた僕は、たまたま病室で義母と二人きりになった。その時、彼女は僕に向かってそう言った。
朋子の実家、リビングにあるカリモクのサイドボードには、数々の大会で義母が優勝した時のメダルが並んでいた。義母がその中から妻が全国大会に出場した時の写真を取り出して「この頃の朋子ちゃん、かっこいいでしょう?」と自慢げに見せてくれたことがある。朋子は恥ずかしがったが、義母はとても誇らしげだった。その時のことを思い出した。僕は、義母と二人だけの約束を交わした。
希望に浸ることのできた時間は、そう長くは続かなかった。痛みに耐え切れなくなった義母の体に、モルヒネが投与された。義母の顔に安らかな笑顔が戻った。幻覚の中でも義母は卓球をしていた。その姿を義父と朋子は愛おしそうに見つめていた。
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義母は亡くなった。斎場には全国から多くの人が訪れ、故人を悼んだ。葬儀は社葬のような荘厳さに満ちていた。霊柩車は三十年通い続けてきた平山中学校の前に止まった。全校生徒、先生、そこにいるあまねく人が義母の亡骸に手を合わせた。義父と朋子はその山のような静かな敬意に向かって、深く頭を下げた。
朋子は義母のいない体育館へ行くことができなくなった。病室で苦しんだ義母の姿を思い出してしまう。最愛の母の死は、彼女の人生に大きな傷を与えた。その間も、谷口先生が卓球部を守り、夏休みには卒業生たちが生徒を教えに来た。神様はこうなることがわかっていて、彼を平山中学へ赴任させたのかもしれない。
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義母の七回忌を終えた翌年、谷口先生に異動が言い渡された。彼の唯一の心残りは、卓球部を府大会で優勝させることができなかったこと。
「前田コーチが育ててきたチームは強かった」
七年間、真摯に「教師」という職業に向き合ってきた彼は朋子へそう言った。谷口先生もまた、義母の面影とずっと闘い続けてきた。
「一緒のようにやったけれど、僕では勝たせてあげることはできませんでした」
ウィルス騒動で自粛が明けた六月、平山中学の校長から転勤した谷口先生へ連絡が入る。彼が平山中学を離れた後、卓球ができる顧問がいなくなったという。このままだと、義母が育ててきた卓球部がなくなってしまう。灯火を消してはいけない。谷口先生は朋子へ相談の連絡を入れた。それは、卒業生たちへと伝わっていった。
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「僕にできることはないでしょうか?」
玄関口で朋子はその電話をとった。高橋という卒業生からだった。義母が教え、そして、朋子が教えた生徒。今は二十八歳になっていた。高橋は卒業生の仲間に声をかけた。彼らは、「自分にもできることがあるならば」とそれぞれに手を挙げた。
「前田コーチが育ててくれた場所だから」
前田房江の灯した火を消してはいけない。義母の情熱は、娘の朋子へ受け継がれ、谷口先生へと受け継がれ、そして今、卒業生たちへと受け継がれる。それはバトンのように。卓球を心から愛した一人の女性が、一人ひとりの人生を変えた。
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高橋と電話をしながら、朋子は声を殺して泣いた。その涙、一粒には記憶と感情が収斂されている。愛した母から受け継がれる灯火、その美しいラインは深い湖の底からマグマの断片を引き上げた。
その涙の意味───それは母が亡くなって七年経った分も含めた、これまでの想いがその一粒に込められていた。質量は限界値を越えて、「永遠」はどこまでも拡張する。
それは青い台の上でワルツを奏でながら回転する、あの白球のように。そこには「永遠」が閉じ込められている。
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