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クチュという犬

犬を三匹飼っている。上からトム(19歳)、ジュリア(16歳)、クチュ(2歳)。ビションフリーゼ、トイプードル、トイプードル。今回は三番目の仔犬の話。

名前は「クチュ(CWTCH)」。ウェールズ語で「愛情を込めて、ハグをすること」という意味。ただ、抱きしめるのではない。家族のようなぬくもりのある居心地の良いハグだ。そんな家族の在り方に憧れて名付けた。

生後四ヵ月の彼は、はじめて家に来た夜、救急病院に運ばれた。嘔吐と下痢を繰り返し、小さなからだはぐったりとしていた。原因は「糞線虫」という厄介な寄生虫。一般的には、馬などの大型の哺乳類に見られる感染症で、犬の体内で発見されることはごく稀だという。この寄生虫は、口や皮膚からも入り込み、人にも感染する。

家に来て“たった六時間後”のことだった。ぼくも妻も、突然の思いもよらない出来事に戸惑った。翌日、かかりつけの病院に連れて行くと、獣医は「こんなかわいそうな犬、見たことがない」と言った。妻が「わたしたちの手に負えないので、ブリーダーさんに返そうと思う」と伝えると、彼は「そしたらこの子、きっと生きられませんよ」と答えた。いのちの重さと商品の価値。鉛のかたまりが喉の奥へと落ちて行った。

その病院で一ヵ月間、入院した。人からも、他の動物たちからも隔離され、クチュは小さなゲージで過ごした。薬を投与し続けても、彼の中の寄生虫は何度も蘇った。看護師たちはマスクと手袋を装着し、排泄物に触れた後は必ず熱湯消毒をした。ゲージの周囲はガムテープで固められ、彼の放つあらゆるものが外に漏れないように工夫されていた。悲しくて、恐ろしくて、かわいそうで、SNSでは誰にも言えなかった。

病院のゲージの中、点滴中のクチュ



彼に面会に行くのは、不思議な心地だった。ぼくたちは彼のことをほとんど何も知らない。そして、彼はぼくたちのことを全く知らないのだ。最初の数日はぐったりと横になっていたのだが、次第に元気を取り戻していった。それでも腸の中の寄生虫は、岩にしがみついた牡蠣のように我慢強くそこに居座り続けた。

ぼくは、彼にシンパシーを覚えいていた。ぼくもまた、腸の病を抱えてこの世界に生まれてきた。産声を上げた瞬間、集中治療室に運ばれ、腹を切った。病のタイトルは“ヒルシュスプルング”。そのアメリカのロックバンドみたいな名前の呪いが、わたしのアイデンティティを育てることになる。

どうしても他人ごととは思えない。彼もまた、過去のぼくであるような気がした。何も知らず狭いゲージの中で跳ねる彼は、小児病棟の大部屋のベッドで絵を描いていたあの頃のぼくなのだ。

最初の頃は、力のない姿だった

彼は生きられるのだろうか。また、生きることに意味があるのだろうか。それが彼にとってしあわせなのだろうか。それは誰にもわからない。

何度も薬を投与され、検査を重ね、晴れて彼は退院できた。家に帰ってきた彼は、すでに一回り大きくなっていた。

小さないのちは、生きることを覚悟した。大病であったことが嘘のように、部屋でぴょんぴょん跳ねまわる。その姿を見て、涙があふれた。「生」とは、これほどまでに瑞々しく、これほどまでにきらびやかなものだろうか。

クチュとの日々がはじまった。家には、トムとジュリアの二匹もいる。犬の関係性の築き方はシビアだ。家族として迎え入れるまでの通過儀礼がある。クチュが近づくと、彼らは低い声で唸り、ぼくや妻の膝の上に乗ろうものなら吠えて威嚇した。ぼくたち夫婦が、クチュにいかに接しているかをよく観察している。あやし過ぎてもいけないし、適切に𠮟りつける態度を見せないと、彼らはプライドを傷つけられる。

近づいたり、離れたり、ぎゅっと抱きしめたり、𠮟りつけたり。そうやって、互いの境界線を解いてゆく。相手を尊重すること。食べたり、遊んだり、眠ったり、抱きしめたり、一緒に暮らすこと。小さないのちの鼓動たち。それぞれがディンドンとこだまして、調和する。家族はきっと、こうやってつくってゆく。

クチュが好きだ。大好きだ。あどけない表情、「ぐるるる」といっちょまえに唸る声、飛び跳ねながら「アンアン!」とわたしたちを呼び、腕の中ですやすや眠る。小さないのちの一つひとつの躍動に、得も言われぬ感情があふれる。力いっぱい部屋を走り回り、間違えた場所でおしっこをして、クッションを破って綿まみれになり、妻の「こら!クチュ!」という大きな声が聴こえてくる。その妻の元気な声を含めて、しあわせに満たされてゆく。みんな元気で、仲が良い。ここにいる全員を、ぼくは包み込むように抱きしめたい。

十日に一度、定期検診にクチュを連れてゆく。糞線虫は本当に厄介な寄生虫で、生体の腸を住処に卵を産み、増殖する。孵化した幼虫は、糞に混じり排出され、そこから感染を広めてゆく。つまり、腸の中の糞線虫を駆逐しなければ、産卵、孵化、感染のサイクルは起こり続ける。クチュの便を検査して、そこに糞線虫の姿がなくとも、腸内にはまだ生息している可能性がある。今回は良くても、次はわからない。もう大丈夫だと信じたい。

ある日、動物病院にクチュを連れて行った妻から電話があった。「クチュのからだに糞線虫がまた出た」。トムやジュリアに感染しないよう、クッションや毛布は捨て、床は熱湯で消毒した。妻は疲弊していた。

「クチュ、また入院するのかな?」と訊くと「もう入院もさせてくれない」と答えた。クチュの退院を祝福してくれた動物病院の看護師さんたちが、彼の便に糞線虫を発見した途端、蜘蛛の子を散らしたようにいなくなった。「やれるところまで、やりましょう」と言ってくれていた獣医にも、どこか距離を感じた。それが、どうしようもなく辛かったと彼女は言った。

「飼い主も抱いちゃだめだって。餌をあげる時も、便を片付ける時も、ポリエチレンの手袋で」

どうやってクチュを育てていくのか。トムとジュリアのからだが一番大事で、彼らに感染させてはいけない。部屋を隔離して、ゲージの中で育てるのか。あれだけ飛んで跳ねて走り回る遊び盛りの彼を、そこに閉じ込めて良いものか。ブリーダーに返すという選択肢もある。

「もう、吐いて、ぐったりした姿を見たくない」

妻は言った。彼女は、悲しみと心労で押しつぶされそうだった。

誰も悪くない。誰も悪くない。であるのになぜ、これほど彼女が傷つく必要があるのか。行き場のない怒りがこみ上げる。怒りは何の利ももたらさないことをわたしは知っている。ただ、静かに受け入れるのみ。わたしたちの話し合いを、クチュはつぶらな瞳で眺めていた。いっそう、胸が締めつけられた。

「愛情を込めて、抱きしめる」という祈りを込めて名付けたいのちを、皮肉なことに、今はもう抱きしめることさえできないのだ。

それからぼくたちは、また別の動物病院を探した。

この小さないのちを救ってくれる人がいることを信じて。「ブリーダーに返す」という選択肢も、当然話し合いの中では上がった。だが、商品価値のなくなった彼はおそらく処分されておしまいだろう。一緒に過ごす中で、彼がネグレクト犬だということがわかった。触れようとすると噛みついたり、唸り声を上げる。トムにもジュリアにもされたことのない反応に、ぼくたち夫婦は困惑した。最初は、「変わった子だな」と思っていたが、それが愛情不足からくるものだと気付いたのはしばらく経ってからのことだった。そもそも、犬が糞線虫症にかかることなどほどんどない。どれだけブリーダーの衛生管理が悪かったのかということだ。

ぼくたちは決めた。彼を大きな愛でくるんでその冷たい鎧を溶かしてしまおう。愛情を込めたハグ。家族のようなぬくもりで抱きしめる。そんな子に育ってほしいと名付けた「クチュ」が、まさかぼくたちの「クチュ」の力が試されることになるとは。ここで逆転が起こるのだ。ぼくが与えた名前に、ぼくたちが育ててもらうことになる。よし、見てろ。

ぼくたちは我慢強く彼をぬくもりで迎えた。何度も手を噛まれ、吠えられ、トムやジュリアに噛みついても、それにへこたれずに繰り返し𠮟りつけ、何度も何度も抱きしめ、彼の名前を呼んだ。

「クチュ」

その名には祈りが込められている。

妻の親友にもたくさん手伝ってもらった。

トムとジュリアに糞線虫が移らないように、クチュの寝泊まりは彼女が請け負ってくれた。人にも感染する可能性があるにも関わらず、彼女は嫌な顔一つせずに協力してくれたのだ。そして、数件の病院を訪ね、ようやく糞線虫症を対処してくれる獣医と巡り合った。

ぼくも、妻も、妻の親友も、トムも、ジュリアも、獣医もがんばった。何よりクチュが「生きよう」としてくれた。前の病院で治療を断られてから三ヵ月後、ようやくクチュの糞線虫は完治した。

余談だが、糞線虫症に投与する薬は「駆虫薬」と呼ぶ。獣医が「駆虫薬を」と言うので、ぼくが「クチュって、駆虫薬にお世話になるための名前みたいですよね」と漏らしたら、笑っていいものかと複雑な表情をされた。人を困らせるジョークは言ってはいけないことをあらためて学んだ。

「クチュ」。ウェールズ語で「こころを込めて、抱きしめる」という意味。ただ、これは意訳。「CWTCH」はハグを現わすだけではない。そう、日本語には収まりきらないあたたかいことば。

犬と暮らしていて思うことが、彼らはただ一緒に過ごしているだけでなく「自分が愛されているかどうか」をよく確認する。それに応えてあげることはもちろん、確認してくる前にこちらからしっかり伝えることが大事。彼らはそうやって関係性を深めてゆく。犬は大切なことを教えてくれる。

別に血はつながっていなくとも、ぼくたちは後天的に“良き家族”をつくることができる。関係性の築き方、それはどこまでいっても一対一の共同作業。わたしは、彼らと共に生活をして「愛すること」を学んできた。

「君は、ぼくにとってかけがえのない存在なんだよ」とぎゅっと抱きしめる。肌に触れ、顔を埋め、声をかける。そこに“こころ”が在るか否か、彼らはそれをよく知っている。体温なのか、声の揺らぎなのか、包み込む質感なのか。大切に想い、抱きしめること。それが「クチュ」。

ぼくたちは、確認されるよりも前に「愛していること」を伝えることができる。「かけがえのない存在なんだよ」とぎゅっと抱きしめる。当然、それは比喩でもある。クチュのある生活。ぼくが大事にしていること。

彼の元気になった姿を見て、想いを巡らせる。

人生のテーマが「対話」だとしたら、ぼくのつくりたい場所は「クチュ」の温度感があるといい。対話という方法で、クチュのある生活を。笑えて、楽しくて、まじめで、相手を想えて、あたたかくて。

家族を大事にする。ただ、血のつながりだけが家族じゃない。後からでも「つくる」ことができる。だからぼくは、対話という方法で一対一の関係性を築く練習をしているのかもしれない。

「クチュ」をさがして。

あるいは、つくるために。

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嶋津 / Dialogue designer
「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。