Take it easy.
わたしには三つ年の離れた姉がいる。
彼女は、写真が好きで、十代の頃から世界中を旅してそこで生活をする“人”を撮っていた。「写真の何がおもろいん?」と訊くと、とぼけた顔をして「人が好きやねん」と言った。人が好き。「じゃあ何で撮るん?」と重ねて訊くと、彼女は「え?」と漏らしたまましばし考え、結局「わからへん」と答えた。わたしの姉は、そういう人なのだ。
ある年、姉はワーキング・ホリデーを利用して一年間カナダで暮らした。帰ってきた彼女に「どう?英語、しゃべれるようになった?」と訊くと「日本人で一番“アーハン”がうまくなった」と胸を張っていた。その場で、英語で話すように促すとほとんどしゃべれないことが判明した。聞き取りについては「なんとなくわかる」程度だそうだ。なるほど、カナダに住むどの日本人よりも“アーハン”を繰り返したに違いない。
彼女はカメラの専門学校を卒業すると、上京してカメラマンのアシスタントとしてしばらく働いていた。その後、大阪へ戻りブライダルのカメラマンとして写真を撮っていた。とにかく涙もろい性格で、式場では毎回目を腫らせ鼻水でぐちゃぐちゃになりながらシャッターを切っていたという。そして、長く付き合っていた男性と結婚し、今では三人の子どもの母である。
実家に集まった時、子どもたちの写真を見せてもらうのだが、なるほどうまい。カメラを借りて撮ってみるが、画質が良いだけで姉が撮るようには映らない。その時、いつか姉が「人が好きやねん」と言った意味がわかった。人が好きな人間にしか、これらの写真は撮れない。「豊かな表情が引き出されている」という単純な話ではない。喜びも、悲しみも、迷いも、無意識も、泡も、空気も、光も、呼吸も、酸化も、刻印も、人が“生きる”営みがそこにある。それがきっと姉の“好き”なのだろう。
姉のことを、一人の人間として見たのはいつだったろうか。わたしは姉が好きだった。それは、生まれた時からあたりまえのようにそこにいた存在として。わたしは、姉が喜ぶことなら何でもした。傾斜のある芝生で二人で遊んでいた時、姉はわたしに「ここから背中を押してもいい?」と訊ねた。わたしは姉の喜ぶ顔が見たくて「いいよ」と答えた。案の定、わたしは斜面を転がり落ちて大泣きすることになる。ある時には、姉がわたしの人差し指と中指の間(いわゆる水かきの部分)にハサミを当てて「ここ、切っていい?」と訊ねた。わたしは姉の喜ぶ顔が見たくて「いいよ」と答えた。わたしの手の止血をしながら、母は姉に激怒した。
こんなこともあった。近所の人がディズニーランドのお土産に、姉とわたしにミニーマウスとミッキーマウスの人形をくれた。その人差し指大の硬質のゴム素材は半透明で、ミニーはピンクに、ミッキーはグリーンに光を閉じ込めてかがやいていた。姉は勉強机の上にピンクのミニーを飾っていて、わたしはグリーンのミッキーを大事に筆箱の中に閉まっていた。箱をひらく度にしあわせになれた。
ある日、姉が「ミッキーがほしい」と言いはじめた。ミニーだけでは飽き足らず、わたしの宝物まで自分のものにしたくなったのだ。わたしは断った。これを手放すわけにはいかない。姉は駄々をこねた。「どうしてもほしい。ちょうだい」。困り果てたわたしは、解決策を練った。しかし、答えを出すにはあまりに幼過ぎた。わたしはハサミで人形を切った。上半身と下半身にわかれたミッキーマウス。わたしは姉に下半身の方を差し出した。胴が硬くて切れなかったので、正確には足を二本である。すると姉は、こともあろうに「そっちがいい」と上半身を指さした。例によって、“わたしは姉の喜ぶ顔が見たくて”上半身のミッキーを差し出した。その後、しばらくわたしの筆箱の中にはスケルトングリーンのミッキーの足が転がっていた。トノサマバッタの後ろ足のようなゴムを有難がって宝物にしていたのである。
いつの頃か、わたしは姉の所有物ではなくなった。それがわたしが姉から独立した瞬間である。同時に、姉を一人の人間として捉えるようになった。離れてはじめてわかることがある。そこから、もう一度、わたしは姉を知りはじめるのだ。
インドのガンジス川で沐浴し、アイスランドでオーロラを眺め、マチュピチュで歴史に想いを馳せた。世界中を旅した姉に、好きなことばは何かを訊いたことがある。すると彼女はこう答えた。
「Take it easy.」
期待はしていなかったものの、その時は肩透かしを食らったような気持ちだった。しかし、今振り返ってみると、とても姉らしいことばだと思った。彼女は人が好きなのだ。間違ってもいい。悩んでもいい。答えが出なくてもいい。気楽に、何とか。