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ただ、そこに居る

昔、演劇を勉強していたことがある。

脚本を書いたり、演出したり、舞台にも立った。自分とは違う人格を育て、表現することは楽しかったし、チームワークで物語を編み上げる熱量はまぶしかった。それは今、文章を書くことに生きている。

一人、尊敬する先輩がいた。彼は、脚本家でもあり、俳優でもあった。佇んでいるだけで不思議なムードがあり、発想には独特のユーモアがあった。何度か彼が演出する舞台に参加した。台本は読み物としてもおもしろく、芝居に対する演出が加わるとさらに魅力的にかがやいた。目を通して読んだだけでは拾いきれていないおもしろさが次々と見つかるのだ。“脚本”がおもしろいのではなく、この“演劇”がおもしろいのだ。

「ダサい人間が演劇をしているから、演劇がダサいものとして扱われるんです」

それが先輩の口癖だった。

オリジナリティということばがある。「独自性」と訳され、音楽でも、デザインでも、料理でも、他と一線を画すには必要となる要素だ。ほとんどの物語、演出、表現は何かの真似事になっている。それが悪いというわけではなく、影響を受けた蓄積が形になった結果だ。その形式、その言い方、その展開、その裏切り、は“あれと似ている”という話。良く言えば、勉強の成果が見える。悪く言えば、月並み。

先輩のつくる演劇には、オリジナリティがあった。彼にしかつくることができない世界。そこへ一歩踏み込むと、肌の下に流れる血が泡立った。影響を受けた作品や体験は数々存在するだろう。しかし、それが彼の感性を通すことで独自の光を宿す。それはそれは鮮やかで、鋭かった。ただ一つ問題があった。それは、彼が売れていなかったことにある。

「どうして、先輩はくすぶっているんですか?こんな才能があるのに」

稽古の合間、何気なく訊ねた。

「ほんまですね。何があかんのでしょうね」

先輩は、そう言って笑った。彼は誰に対しても敬語で話した。それが年の離れたわたしであっても。いつか「初対面からタメ口で話す奴、嫌いなんですよ。そういう奴、大体おもんないですからね」と話してくれたことがある。わたしが誰に対しても敬語で話す理由は、先輩の影響があるのかもしれない。

ある寒い月、先輩が誕生日を迎えた。稽古終わりに俳優仲間が、先輩に内緒でバースデーケーキを用意していた。ロウソクに火を点け、みなで例の歌をうたう。聴きなれたメロディに先輩の名前が乗る。最後、先輩がロウソクの火に息を吹きかけるタイミングで、最年少の俳優が代わりに吹き消してしまった。突然、場は白けたムードになり、ケーキを準備した女優たちは火を消した若手を激しく非難した。先輩を見ると、照れた様子で笑っていた。

後日、先輩はわたしに話してくれた。

「僕ね、誕生日祝われるのとか苦手なんですよ」
「どうしてですか?」
「恥ずいやないですか」
「そういや、あの時は別の人がロウソクの火を吹き消してましたね」
「あれね、僕が彼に頼んだんですよ。僕が火を消すタイミングで、代わりに消してくれって」
「彼、怒られてましたね」
「ええ、めっちゃ怒られてましたね」
「……」
「あれでええんですよ」
「あれでええんですか?」
「人が怒られてんのって、おもろいですよね」
「……おもろいです」
「頼まれたことやって、あんな怒られてるんですよ」
「自分からやったわけじゃないのにね」
「そういうことって、世の中にあふれてると思うんですよね」
「……」
「理不尽ですよね。それでも人は腹減ったり、セックスしたりして生きてるんですよ」
「……」
「ま、彼はあの後、別にセックスしてないでしょうけどね」
「……」
「嶋津くん」
「はい?」
「前にね、僕に“どうして、くすぶっているんですか?”って訊いたでしょ」
「はい」
「あれ訊かれた時ね、めっちゃ恥ずかったんですよ」
「……」
「もうすぐ三十になんのに、オレ何してんねやろ、と思ってね」
「先輩は、売れると思いますよ。見つかってないだけで」
「……隠れてるつもりはないんですけどね」
「少なくともここにいる人やお客さんは信じてますよ」
「……」
「……」
「稽古に戻りましょうか」

いつか先輩は言った。「僕はね、演技がしたいんやないんですよ。芝居がしたいんです」。そのことばを聴いた時、わたしには意味がわからなかった。ただ、今ならなんとなく理解できる。人は誰もが演じることができる。その人格に接続した先、それが自然体となった瞬間、その物語の住人になれる。その時、人は演じることなく、ただ“そこに居る”だけになるのだ。

はじめは演技でいい。それがいつか芝居になることができれば。


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