告白の社会学

「告白したら今までの関係性が壊れてしまうかもしれない」ーこれは告白に踏み切れない人がよく言う「言い訳」の一つであるだろう。

告白とは相手(好きな人)の出方(OK or フラれる)がわからないものであり、相手の出方は「不確実性」の闇の中である。告白という象徴的なライフイベントに限らず一般的に自分以外の他者が何を考えているかを十全に理解することなど不可能であり、家族や知人、恋人や電車の中で隣に座る人などあらゆる他者の全ての行動が「不確実性(次に何をするかわからない)」に包まれている。

ここである社会学者は一つの問題提起をする。不確実性に包まれているこの社会で秩序は如何にして達成可能なのだろうかと。例えば、今電車に乗っているとして隣の人がいきなり刃物で自分の脇腹を刺してくる可能性は否定しきれない。それ以外にも家族がいきなり発狂する可能性や、恋人がいきなり浮気をする可能性も完全に否定することはできないのである。こうした一例は不確実性が暴走した場合を想定したものである。こんなことを気にし始めたら怖くて自分の部屋から出ることはできなくなるだろう。それにも関わらず電車の中での疲れたサラリーマンは大方の想定通り最寄り駅まで吊革を掴み続けるし、家族は黙々と家事をこなし、恋人は恋人としての役割を果たし続ける。だからこそ私たちは安心して自分の部屋から一歩を踏み出すことができる。

ある社会学者の問題提起に戻ると不確実性に包まれているこの社会で秩序は如何にして達成可能なのだろうか。それは「不確実性の二重化」が起こっているからである。電車の例に戻ろう。先ほど私たちは隣の人が脇腹を刺してくる恐怖に怯えた。その一方で隣に人もまた私たちが脇腹を刺すかもしれないと怯えているのである。ここでは私たちも相手の「不確実性」に怯え、相手もまた私たちの「不確実性」に怯えるという「不確実性の二重化」が発生している。この「不確実性の二重化」が逆に「確実性」をもたらすと社会学者は考えるのである。もちろん怯えるだけで「確実性」が生じるわけではなく、「不確実性」に対して私たちは試行錯誤的に行為を調整し、その行為の調整の結果の積み重ねが「確実性」に至ると考えられるわけである。

告白の場合この「不確実性の二重化」はどのように解釈できるだろうか。告白するのに躊躇う場合、好きな相手の出方の不確実性に怯えているわけだが、「不確実性の二重化」の視点が教えてくれるのは、好きな相手もまたこちら(告白する主体)の不確実性に怯えているという事実である。告白する主体と客体の間にも「不確実性の二重化」は生じており、つまり両者の間には「確実性」が生じることになる。ここでは告白が必ず成功するということを述べているわけではない(とても大事)。「不確実性の二重化」からわかることは自分(告白する主体)が「今までの関係性を壊したくない」と願う時、相手もまた「関係性を壊したくない」と願っているはずであり、この両者の願いが二重化している場合、例え告白に失敗したとしても「関係性を壊したくない」という願いは両者の行為の調整の結果叶うだろうと考えられるということである。

注意点としてこの論にはとてつもなく大きい楽観主義がベースになっている。それは「相手もまた「関係性を壊したくない」と願っているはず」という点である。その一方で自分が関係性を壊したくないと願えるくらいの関係性がその相手(好きな人)と構築できているなら相手も関係性を壊したくないと思うはずであろうという判断がここにはある。ここに文句を言う人は余程の悲観主義者であり、告白など「関係性を壊したくない」と言う願い以前に不可能である。(この段落は冗談)

本稿では告白という一大ライフイベントを社会学における「不確実性の二重化」という議論から見てきた。今までの議論からわかるように告白した場合告白に成功するかどうかを社会学が保証することはもちろん(到底)できないが、告白の結果による関係性の破綻は論理的に起こり得にくいということがわかる。よって冒頭の「告白したら今までの関係性が壊れてしまうかもしれない」という心配は冒頭の表記通り鉤括弧付き、つまり言い訳として成立しない「言い訳」であり、「告白したら今までの関係性が壊れてしまうかもしれない」と心配するものは何か他の告白できない理由をカモフラージュしているか、余程の悲観主義者である。

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