「誰もがオギャーから始まった」という事実。
会社員をしていた頃、すぐに怒り出す人がいた。
「なんでこんな事も分からないんだ!」
「これぐらい分かって当たり前だろ!」
そんな人を見るたびに、僕は胸が痛くなった。
「分かってくれて当たり前」は、教える側の甘えだ。
教えてもいない事を上手くやってくれる人がいるのは確かだが、大半の人はそうではない。
何度も教えて初めて身に付く人ばかりだ。
「なんでこんな事も分からないんだ!」
こういう人を見るたびに僕が思うのが、「誰もがオギャーから始まった」という事だ。
どんなに偉ぶってる人でも、どれだけイキってる人でも、最初は母親のお腹の中から「オギャー!」と生まれてきた。
そして、生まれたばかりの頃は誰かの力無くしては、生きる事もできなかった。
そこから少しずつ、ハイハイができるようになり、お座りができるようになり、成長してきた。
ハイハイのできない子供に対して、「なんでハイハイもできないんだ!」と怒るだろうか。
僕が思うに「なんでこんな事も分からないんだ!」は、これと同じなのである。
なぜ分からないか?
それは紛れもなく、やり方を教えていないからだ。
「一を聞いて十を知る」という言葉がある。
これは、『論語』に出てくる言葉で、孔子の弟子である子貢(しこう)が、孔子の門人である顔回(がんかい)を「回や、一を聞いて以て十を知る。賜や、一を聞いて以て二を知る(顔回は一を聞くと十を理解するが、自分は一を聞いても二を理解する程度である)」と言ったという故事に基づいている。
そう、孔子の弟子ですら、一を聞いて十を知る人の事を褒めているのである。
それぐらい、一を聞いて十を知る人なんてのはほとんどいない。
ほとんどの人は、「十を聞いて十を知る」というばかりか、「二十を聞いて十を知る」なんて人だっている。
ここで、教える側にとって大切な事は、一を聞いて十を知る能力の無い人に対して、一を聞いて十を知る事を求めないという事だ。
「なんでこんな事も分からないんだ!」は、教える側の甘えだ。
怒られた人は、どんどんモチベーションが下がってしまう。
二十を聞いて十を知る人には、二十の分だけ教える。
理不尽な怒り方は、有効に機能しない。
基準を「相手が自分の子供だったらどういう教え方をするか」に置くといい。
例えば、自分の部下が「怠惰な気持ちから意図的に手を抜いた」なんて場合は叱ってやればいい。
しかし、懸命にアウトプットしようとした事に対してクオリティが満たないから怒るというのは、有効に機能しない。
相手は機械ではない。人なのだ。
理不尽な怒られ方をした相手は、たちまちモチベーションが下がってしまうだろう。
誰もがオギャーから始まった。
これを忘れないようにしよう。
≪今日のまとめ≫
・「分かってくれて当たり前」は、教える側の甘えだ。
・誰もがオギャーから始まり、色んな事を教わりながら成長してきた。
・理不尽な怒り方は、有効に機能しない。
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