「チェンソーマン2部が失速した5つの理由」を読んで考えた事とチェンソーマン2部の魅力
※本記事ではチェンソーマン1~11巻を公安編、12巻~17巻(続刊)を学園編と呼称します。
まず大前提として、私はチェンソーマンという作品が大好きであり、それは公安編から学園編になってからも変わりありません。ジャンプ+での最新話の更新を楽しみにし、新刊が出たら購入するくらい愛好しています。
しかし、どうにも学園編の展開に一部の読者が不満を持っているようなのです。最初のうちは「学園編もめちゃくちゃ面白いだろ!」と反発する気持ちもあったのですが、次第に「まあ感想は人それぞれだしな」と納得するようにはなりました。
そんななか、2024年5月22日に第166話「雨・ソープ・切断」が公開されました。
私はこの166話を読んで、公安編から通してみても重要な回であり(詳細は後述)、初期から読み始めた人ほど感慨深くなるはずだと感じました。
しかし、コメント欄を見てみると依然として一部の人が「下ネタつまらない」や「どういう物語にしたいのかわからない」と書き込んでいるのです。
そして極めつけは2024年5月24日にnoteで公開された1735の悪魔氏(1735の悪魔|note)の「チェンソーマン第二部が失速した5つの理由」です。
166話の更新直後の記事のため、それについての意見もあったのですが、タイトル通り学園編がなぜつまらないのかを説明した記事となっています。
学園編の内容のどこに不満を持っているのか知りたかった私はこの記事を読みました。内容はとても理路整然としており、学園編を楽しんで読んでいる身とはいえ賛同できる意見もありました。
全体として学園編に不満を持つ人たちがどこに不満を持っているのかを理解できる良い記事だと思います。
しかし、1735の悪魔氏の記事にはどうしても納得できない意見もあったのです。
意見が異なる人に対して批判をしても無用な争いになるだけで本来なら避けるべきかもしれません。
しかし、自分の好きな作品に対してあまりにも違う解釈をされていると口を出したくなるのもファンの性というものです。
そして、彼の記事に対して反論と166話の重要性を整理して考えているうちにチェンソーマン学園編に対して不満を持つ人たちの心理についてある仮説を思いつきました。
すると、彼らの否定的な反応が腑に落ちるようになったのです。
本記事ではまず1735の悪魔氏の記事の納得できない部分について私の意見をまとめました。
その後、公安編から学園編に引き継がれた「チェンソーマン」という物語のテーマと166話がなぜ公安編から通して重要な回なのかについて私見を述べます。
そして最後に、チェンソーマンの最近の展開について不満を持つ人たちの心理についての仮説を説明し、それに対する私の考えを述べさせていただきます。
なお、チェンソーマン学園編に対して不満を持つ人にとって批判的な内容となっております。気分を害する恐れのある方はブラウザバックを推奨します。
1735の悪魔氏の記事に対する意見
1735の悪魔氏の記事で述べられていた学園編に対する不満は以下の5つです。
①新キャラの魅力が薄い
②作画の大幅な劣化
③展開が遅い
④露骨で執拗な下ネタ
⑤デンジに対する違和感
このうち①~③については私も否定できない部分を含むので、この記事では言及しないことにします。
ただ、
と自分の憶測を紛れ込ませている部分と、
と著名人の名前を出して自分の意見を言わせている部分はよろしくないと苦言を呈させていただきます。
以下、④露骨で執拗な下ネタと⑤デンジに対する違和感についての意見を述べていきます。
露骨で執拗な下ネタに今さら違和感を覚える?
この点については、何を今さらと言いたくなりました。
そもそも公安編の頃から
・胸もみたいと公然と言う主人公
・酔っぱらったデンジを襲う姫野
・クァンシと彼女の情婦たちの貝合わせ(しかも扉絵!)
と、過激で露骨な性的描写はありました。
記事中でも言及していますが、公安編の頃は少なくともファンの間では「露骨な下ネタだ!」という批判はなかったですし、人を選びそうな描写にもかかわらず人気が落ちることはなかったはずです。
上のツイートのように、露骨で執拗な下ネタがあるせいでつまらなくなったわけではなく、つまらないという感情を先に持っていてその理由に下ネタを挙げているだけではないですか?
少なくとも、つまらなくなった理由として露骨で執拗な下ネタを挙げるのは妥当ではないと私は思います。
また、公安編からのファンであるにもかかわらず、166話を読んだうえで
という感想しか出てこないのは、チェンソーマンのどこを読んでいるのかと聞きたくなるくらい残念だなと思いました(詳細は後述)。
「パワーを探しに行かない展開はおかしい」は本当に正しいか?
1735の悪魔氏は、多くの読者がパワーを探しに行く展開を学園編で期待していたはずで、本来であればそのような物語を描くべきだと主張しています。
その根拠として17話で悪魔との契約について姫野が述べた内容(契約を守れなかった方は死ぬ)と、91話でデンジとパワーが交わした契約を挙げています。
しかし、デンジにとって最も大切な相手との契約を忘れていませんか?
そう、ポチタと交わした契約です。
ポチタと交わした契約は、「デンジの夢をポチタに見せること」です。
そしてデンジの夢とは「普通の暮らしをして、普通の死に方をしてほしい」です。これらは1巻1話の回想で描かれています。
そしてこの契約は学園編においても続いていることが、心臓となったポチタに問いかけるシーンでも確認できます。
悪魔との契約の重大さを認識しているのならば、パワーとの契約は重視するのにポチタとの契約を無視してしまうのはおかしいと私は思います。
デンジが公安編とは別人になったのか?
1735の悪魔氏の記事では学園編のデンジが無気力になってしまったと述べています。
記事中で例として挙げている画像は確かに生気を失った表情をしています。
しかし、毎回この表情をしていたという主張は本当なんでしょうか?
今回私が学園編を読み返した限り、少なくとも12~15巻までのデンジは生き生きした表情も見せていました。
16巻以降からは口を半開きにした表情が多くなっていますが(記事中で例として挙げている画像も16巻のもの)、学園編全体を通して常に無気力な表情だったとは言えないはずです。
さらに、記事では学園編になってからデンジの魅力がなくなった理由について述べています。
この点についても私の解釈は異なります。
デンジは公安編から持ち続けている明確な目的がありますし、学園編でもそれは重要なテーマとして描かれています。
「チェンソーマン」という物語のテーマとは?
公安編から持ち続けているデンジの夢
チェンソーマンという物語における重要なテーマは「デンジの夢」だと私は考えています。
「夢」は「幸せ」と言い換えてもいいかもしれません。
それではデンジの夢とは何か?
1つは先述したとおり「普通の暮らしをして、普通の死に方をしてほしい」という切実な夢です。そして、これはそのままポチタとの契約の内容となります。
そしてもう1つは「チェンソーマンになって女の子からモテたい」というくだらない夢です。
これが明言されるのは11巻93話です。
この部分は1735の悪魔氏も言及しています。
私自身もこの部分について大いに賛同するのですが、それと同じくらい「普通の暮らしを送りたい」という夢はデンジにとって大切であり、ポチタと交わした契約のことを考えればなおさらです。
これら2つの夢が学園編において重要な要素になっていると私は考えています。
公安編で曖昧にしたままの問題と学園編の関係
私は学園編を読み進めていくうちに、公安編では曖昧にしてしまった問題があることに気が付きました。
それは、「普通の暮らしを送りたい」という夢と「チェンソーマンになって女の子からモテたい」という夢は両立できないのでは?です。
学園編の当初は、デンジはチェンソーマンになることに躊躇がありません。
むしろ、チェンソーマンであることを周りに知ってほしいと望んでいます。
しかし、落下の悪魔編以降チェンソーマン教会の存在と活躍によってチェンソーマンに変身することを公安から禁じられてしまいます。
チェンソーマンになれない。
これはデンジにとってある意味ではチャンスでもありました。
なぜなら、普通の暮らしを送るにはチェンソーマンになってしまってはいけないからです。
デンジは普通の暮らしを送ることで満足なはずだと思い込もうとしました。
しかし、デンジはチェンソーマンになることを諦めきれなかった。
普通の暮らしだけでは満足できなかったのです。
そして、住んでいるアパートへの放火によって衆人環視のなかチェンソーマンへと変身してしまう。
その結果、普通の暮らしの象徴でもあるナユタとペットたちを失うことになってしまったわけです。
普通の生活を送りたいという夢の次(チェンソーマンになりたい)を求めてしまったがゆえに、すでに手に入れた夢を失う結果となってしまったのが17巻までの展開です。
この2つの夢に対する葛藤こそが、公安編で曖昧にした問題を引き継いだ学園編の大きなテーマの一つなのです。
166話の重要性
デンジが持つ2つの夢という観点から、166話は公安編から通してみても非常に重要な回であることがわかると思います。
この回で、デンジは初めて自分が性欲に振り回されていることを自覚し、手に入れていた普通の生活がめちゃくちゃになってしまったと後悔しているのです。
公安編の終盤ですらチェンソーマンとしてマキマと戦うことを決意したきっかけは性欲なのですから、この回における彼の自省が「チェンソーマン」という物語全体の大きな転換点になっていることは明らかです。
この回はデンジが自分の生き方の変更を迫られていると言えます。
彼が言っている通り、「笑い事ではない」わけです。
そして、次回の展開次第では二度とチェンソーマンとして立ち上がれないかもしれないという意味でも重要な回というわけです。
チェンソーマン学園編に不満を持つ人たちの心理
学園編に批判的な人たちに関する仮説
これまで説明してきた通り、166話は公安編から通してみても非常に重要な回であり、初期からのファンほど感慨深くなるはずだと思っていました。
しかし実際には、1735の悪魔氏を含めた一部の読者はこの回の重要性を認識せず、「下ネタ」としてくだらないと批判していました。
どうしてこのような感想になってしまうのだろうかと私は困惑しました。
そこで1735の悪魔氏の記事を読んでその理由を知ろうとしました。
そして彼の意見に納得できない部分と私が考えている学園編の解釈を整理しているうちに、現在の展開に不満を持つ人たちの心理について1つの仮説を思いつきました。
「彼らはチェンソーマンに興味があるのであって、デンジには興味がない」
こう考えると彼らの批判が一気に理解できるようになりました。
・話が進まない→チェンソーマンという存在の謎に関する話が見たい
・デンジが別人に→チェンソーマンとなって大暴れするところが見たいからデンジの葛藤なんていらない
・面白くない→チェンソーマンの活躍が見たい
学園編に不満を持つ人たちとバルエムの共通点
この仮説を思いついたとき、そういえば学園編において似たような人がいたことを思い出しました。
それはバルエムです。
彼はチェンソーマンが暴れることにしか興味がなく、デンジが平和な生活を送っていることに怒りを覚えているキャラです。
藤本タツキ先生がどこまで意識しているかはわかりませんが、不思議なほど共通点が多いなという印象です。
チェンソーマン第二部に不満を持つ人たちへ言いたいこと
私はチェンソーマン学園編の展開に対して不満を抱いている人たちがおかしいと言うつもりは毛頭ありません。
公安編で描かれていたカタルシスやチェンソーマンという存在の謎は確かに大きな魅力の一つであり、学園編で描かれているデンジはこれを楽しみにしていた人たちの期待とは異なることは十分理解できます。
しかし、166話で描かれていた内容に対して「下ネタ滑ってるw」みたいな反応を返すのは「チェンソーマン」と言う物語を読む気がないのではないか?と言いたくもなります。
たとえチェンソーマンのカタルシスにしか興味が向いていない人であったとしても、166話と次回の展開次第ではデンジが二度とチェンソーマンになれない可能性も含んでいることはきちんと読めばわかることであり、そこに意識が向かないのはおかしいと私は考えます。
例えば、「デンジがうじうじしているところなんかどうでもいいからさっさとチェンソーマンになれよ」みたいな反応だったら、物語をきちんと読んだうえで不満を抱いているのだなと理解はできます。
しかし、「下ネタ滑ってる」みたいな反応は、描かれていることを読み取ろうとせずに、自分の理想の物語との間違い探しをしていると言われても仕方がないのではないでしょうか?
最後に
チェンソーマン学園編は人間としてのデンジが自分の夢に対して葛藤をいだいた様子を描いた作品であり、公安編とは違う魅力を持っていると断言できます。
それに対してどういう感想を抱くかは自由だとは思います。
しかし、デンジは決してチェンソーマンの付属品ではなく、一人の人間だということは心に留めてほしいのです。
チェンソーマンという存在だけでなく、人間としてのデンジにも目を向けてほしいと願うばかりです。