明治時代の択捉島に何があったのか - 巡巡 #016
多喜雄に関して、うちの家族に聞いても特に情報は得られなかったので、自分で調べることにした。2014年に亡くなった祖父に聞けたらなと悔やむ。そもそも祖父は多喜雄と接点があったのだろうか?多喜雄は昭和18年に65歳で亡くなっていて、祖父は昭和9年に生まれている。会っていたとしても小さいからあまり記憶になかったか、僕は聞いたことはない。自分のじいちゃんのおじいさんの話を聞くことは少ないかもしれない。
まず僕が調べたのは現在の択捉島に本籍があったことだ。明治20年代の中頃から後半にかけて、多喜雄は沙那郡留別村という場所にいた。多喜雄青年は10代後半から20代前半、何年いたのか定かではないがこの時代に本籍を移したことを考えると「数年はいた」もしくは「いるつもり」だったと考えた。根室の管轄や北方領土に問い合わせてみたが、記録には残っていなかった。鮭やカニ、昆布がたくさん獲れたようで島に漁で来た可能性もあるのでは?という説を教えてもらった。
同時に戸籍も遡るべく問い合わせたが、残っていないとのことで多喜雄の戸籍がここで途絶えた。のちに聞いた話ではロシアの方から返還されていない戸籍があるようでそこにあるのかもしれない。ちなみに択捉島にある戸籍を取り寄せる場合は釧路地方法務局根室支局が管理している。
年代と照らし合わせて、次に考えたのは郡司成忠の「報效義会」第二次千島拓殖との関係。(詳細はポッドキャストにて)
この時多喜雄は18歳。また郡司成忠の千島拓殖を小説にした「北洋の開拓者」(豊田穣)にて「九州から上京してきた青年」という内容の記述があり、多喜雄と境遇が似ているようだが詳細はわからず。
「報效義会」の千島拓殖の際に撮られた写真が学習院大学資料館の写真集「明治の記憶」で見ることができた。集合写真もいくつか見れたが、顔を知らなかったので詳細はわからなかった。この写真集に当時の択捉島の写真があったが何もない景色が続き誰もいない島といった感じで、何年もここにいたのかと思うと寂しさより怖さを覚えた。
この頃、留別村に郵便局が出来たらしいのでそういった関係も出てきた。
本籍を巡る戸籍は途絶えたが、この択捉島から転籍した場所の記載がありそこに除籍謄本がないか実際に取りに行った。それが現在の「原宿」であった。