30歳で死ぬと思いながら生きていた
小学生のとき、「将来の夢は何ですか?」と何度も問われた。
周りの友達を見ていると、学校の先生やスポーツ選手、消防士を夢として掲げて堂々と発表していた。
私はいつも答えに窮していた。そんな難しいことを容易く聞かないでほしい、といつも思っていた。
興味あることはありすぎて選べないし、先の未来のことなんか想像できない。もし言葉にして誰か伝えてしまったら無意識の中で将来の道が固定化されてしまうかもしれないという恐怖を抱いた。
なので、「何でもいい」とか「何者にもなりたくない」みたいな曖昧で小学生にしては極めて可愛げのない回答をしていた。個人的な意見として、そんな子どもとの関わりは極力避けていきたいと心の底から思う。
2024年6月に27歳になった。寿命が80歳だと仮定すると、人生の3分の1が終わったらしい。今まで30歳の自分なんか想像できなかったけど、すぐ近くまで来ていることにふと気づいた。
そして、思い出したことが1つある。いつの日からか忘れたけど、そういえば30歳で死ぬつもりで生きていたことを。
たしか理由は色々あった気がする。
車に轢かれて死にかけて本当にいつ死ぬか分からないことに気づいたり、大学卒業後の社会人生活が数多の絶望に満ちていたり、いくら考えても将来のやりたいことが見つからなかったり。
それで未来のことを考えるのをやめた。ついでに過去も。漠然と未来のことを考えて不安になったり、過去の何かに縛られた振りをして現実から目を逸らしたりすることを。
その代わりといってはあれだけど、「いまここ」に向き合うことを重んじることを始めた。
今食べたいものを食べる。会いたい人に連絡してみる。転職する。旅をする。サウナに行く。こういう当たり前の日常に、目の前のことだけに集中すること。
心のときめきに耳を澄ませて、好奇心が赴くままに行動してみること。単純に言うと、やりたいことをちゃんとやることの積み重ねで生きる、という感じ。
こういう表現だと分かりやすかったりするのかな。時間軸としては過去と未来ではなく、いまを。空間軸としては他者ではなく、自分を。
生きれば生きるほど、有益か無駄か分からない知識が増えたり、だんだん関わる人が減ることで思想や価値観が固定化されたり、まわりの目線を気にするようになったりして、ふと気づいたときに「ありのまま」が「あるべき」にすり替わってしまう。
ということも思いつつも、80歳まで命が続く前提だと、時間が無限にある気がしてしまって、何もかもを後回してしまい、結局何も変わらないと思った。
それで、いったん仮だけど30歳で死ぬと思い込むことを決めた。
命の明確な期限を持つことで、日頃の行動の阻害要因になっている羞恥心やリスク志向が消え去り、まわりの目線も変に気にしなくなることで、本当に大切なことだけを大切する態度で人生に向き合うことができるかもしれないと考えたからだ。
そのおかげで結構楽しい日々を過ごせたと思う。ここには詳細は書かないけど、今やりたいことをやりまくった。
そんな風に生きてきた中で、「あ、そういえばもう少しで30歳じゃん」と思ったのがつい最近のこと。そして、1つ考えてみたことがある。
妄想というか仮定でしかないけど、もし本当に病で寿命宣告されて30歳で死ぬことになったらどうなるんだろうと。
周りの人だったらどうだろう。悲しみや恐怖、驚きのような感情を抱くのかなと想像した。私は「意外と悪くない、おもしろそう」と思った。
もちろん死に対する恐怖や生に対する執着がないわけではない。けどなんだろう。
もし近い将来に死ぬことが確定すれば、今以上の強度でやりたいことをやり、会いたい人に会い、言いたいことを言うことができる。不意な事故で死んだり、老いて孤独に死んだりするよりも、ゴールを見据えてラストスパートを本気で走り切ってまわりに見守られながら満足して死ねることに尊さを感じる。
そんな感覚だろうか。別に死にたいわけでも人よりも長生きしたいわけでもないけど。ありがたいことに今はすごく身体も精神も健康なので、しばらくは健やかに生きることを想定している。
そして、27歳を迎えた現在において、「将来の夢は何ですか?」と問われたら何と答えるのだろうか。
こう思った。まじでない。
小学生のときから答えは変わらないけど、答えに対する解釈は変わっている。
今は自信を持って「夢なんかなくていいんだ」と思える。何が起きるかも、いつ死ぬかもしれない不確実な未来に想いを馳せるのではなく、「いまここ」にちゃんと向き合い、好奇心を指針に行動し、どんなときも本音だけ言い、いつ死んでもいいように目の前の日常を本気で楽しんでいればよい。人生なんか点の積み重ねでしかない。
ということで、私は2年後にイギリスかスペインに飛びます!(たぶん)
続きはまたどこかで。