努力とは何だろう
こんばんは。
最近私は努力とは何なんだろうと考える機会があり文字にすることで解明しようと考えました。
日本では物価高や円安の影響でどんどん生活が苦しくなり多くの方が現状を変えなければならないという危機感を抱いているかと思います。
当然私もそのうちの一人です。
物価高による生活困窮だけでなく、多様化する働き方によってどんどん貧富の差が生まれているのを実感してきました。
地元の友人でタワーマンションに住んでいる人や、一切貯金ができないと嘆いている人、私の周りだけでも本当に様々です。
私は現時点ではほぼ中間層で、現状に全く満足していません。
むしろ現在地を見て悔しいと感じたり、絶対親への恩返しをして自分の未来の家庭には何不自由ない環境を整えたいと感じることばかりです。
そんな中ふと感じた努力って何だろうという疑問はどんどん大きくなりました。
努力しないと理想の自分はなれないけどその努力の具体的な定義とは何かが出てきません。
周りを見ると自分の人生に本気で向き合っている人がいます。
逆に毎日をただ過ごしているんだろうなと感じる人もいます。
その違いを生み出している努力とは何なのか。
その問いに対して努力は捉え方だという結論に辿り着きました。
サッカーで天才と言われた宇佐美貴史選手はひたすら自分のドリブルを磨くために試合から帰ってきても家の裏にある小学校のグラウンドでひたすらドリブル練習をしていたそうです。
常に頭の中でディフェンスを思い浮かべながら練習をする。
時間の許す限りボールに触れる。
周りの人はおそらくこれを見て
「努力してて凄いな」、「俺にはあんな努力出来ないな」と思うでしょう。
しかし当の本人はきっぱり努力だと思ったことは一度もないと答えていました。
むしろ「サッカーが好きで仕方がなかった。うまく行かない時も含めて全てが楽しかった。」と言っていたのがすごく印象に残っています。
この話から私は努力って概念は自分で決めるものではなく周りが決めるものなんじゃないかと思いました。
努力ってすごく抽象的な言葉で例えばテスト勉強。
テスト1週間前に勉強を始めテストに臨むことを努力だという人はなかなかいないでしょう。
しかしその勉強量を3年間毎日続け難関大学に合格したという話を聞けば誰もが”努力”だと捉えると思います。
このように実際の行動は変わらず期間や目的が異なるだけで同じ行動でも努力に感じてしまいます。
1週間のテスト勉強で少し順位が上がった自分を努力の結果だと感じる人もいれば
3年間の積み重ねも努力ではなく当然のことだと自己評価する人もいます。
私は後者でありたいと考えました。
今の自分を評価して全く努力しているとは感じていません。
これは周りの人が見ても同じ意見だと思います。
今回の事例の後者ではなく本当に何もしていない人間です。
日々自分を律し誰よりも努力と感じず行動し続けられる人になっていこうと決めました。
まとまらない文章になりましたが最後までご覧いただきありがとうございました。