かさぶた日記 いつも、誰かがどこかで−
もう今年も半分過ぎたで。ヤバない?
このシーズン、会話するときに
十五秒くらいは稼げる話題で重宝している。
上半期の振り返りと下半期の展望についてまで
話を広げられると、なお良しだ。
ちょっと前に友達とカフェに行った時に
(その人には時間稼ぎの質問とかはしたくないのに!)
脊髄反射で口にしていた。
浅はかな自分に反吐が出ます。
その時に『ルックバック』がすごく楽しみで早く観たいと言っていた。
あらすじを聞いて興味を持つのは自然な作品だと思ったし彼の説明の着眼点や作り手としての情熱が垣間見えて、この映画を観ることをすぐに決めた。
映画を観終わってすぐにボイスメモを起動して
誰もいないどこかの隅で
ブツブツと言葉を吹き込んだ。
忘れることが怖い。
今こんなにも胸中を揺さぶるものだって、
数時間後にはほとんど形を成していないかもしれない。
いつも、誰かがどこかで−
この後に続くものをずっと言語化できないでいるが確かにこの言葉だ。
映画に関しては
「何のために描いてるんだろう」
これが僕のキーワードではないかと思う。
理由は一つじゃなくていいし、変わってもいい。
僕が全ての作り手に畏怖を覚えるのは
最後に残っている熱意だ。
この前のツアーファイナル、
ちょうど何のために音楽をやっているか
ずっと考えていたタイミングでお客さんから
「本当に今日来て良かった」
その一言がもらえただけでやってきて良かった。
自分のためか、お客さんのためか。
もう全然分からず、煮詰まって煮詰まってグチャグチャになった思考から生まれて、僕の手から離れたものの正体は何だろうか、分からない。
また別の時に、片目から涙が出ましたと言ってくれた人も居たなぁ。その時は若干ボケが入っているのか分からず、それとなく感謝の意を示したけど、僕じゃなければ両目から涙が出ていたかもしれないと考えると同時に、今ではこれも、あぁルックバックだなと思える気がする。
人と比べて、折れて、捻じ曲がって、
自分を疑うことは数知れないけど
自分が発したものはしっかり認めてあげたい
責任を感じていたい。
いつも、誰かがどこかで
誰かにとって特別なものになっている。
ルックバックの話
ほとんどしてなくてすみません笑
観た人また話しましょう!