〈みんなに知ってほしい〉障がい者に対する配慮
身体障がい者
と聞くと、どんなイメージがありますか?
視覚障がい、聴覚障がい、肢体不自由などの障がいの種類が思いつく方や、大変そうや優しくするなどのことを思ってくれる方もいれば
心無いようなイメージをお持ちの方もいると思います
何を隠そう、僕自身も身体障がい者です
僕の場合は視覚、つまり「目」です
全く見えないわけではないですが、両目ともかなり視力は低いです
細かい症状はおいといて、眼鏡やコンタクトを付けている人なら
裸眼の状態で常に生活しているような感じです
僕は発症してからかれこれ、この体で十数年生きてきました
有難いことに世間は障がい者に対して優しくしようという風潮がありますし、僕の周りにも力になってくれる人ばかりなので特別苦労したことはほとんどありません
誰かに助けてもらいながら生きている僕ですが、そういった障がい者に対する配慮に対して、配慮してもらう側が感じていることを偉そうなことは承知の上で、書かせていただきます
まず、冒頭でも書いた通り、僕はだれかに助けてもらいながら生きています。小・中・高時代は教科書を拡大コピーしたものを毎時間もらっていたり、板書を隣の席の友達に教えてもらっていたり、友達にノートを借りて写させてもらったりしていました
先生や友達、家族様々な人に助けてもらってきました
それに関しては、もちろん感謝していますし、有難いなと感じています。しかし、正直なところそう思えないこともありました
それは、必要以上の配慮です
僕は、黒板の文字などは見えませんが、書いてある内容を教えてもらえればノートに書くことはできます。書類などを読むことはできませんが、記載する場所を教えてもらえれば書けます
このように、僕にも
ここまではできる、
ここからはできない
という境界線があります
それを考えず何でもかんでもやってあげようというのは、
わかりやすく言うと子ども扱いされているような気分になります
映画の中でも、ドリスはフィリィプに対し、差別的なブラックジョークを言ったりマリファナを勧めたり、中々ありえないようなこともしますが、フィリップは自分を障がい者扱いしないドリスに心を開いていきます
障がい者に対し何でもやってあげるというのは一見、素晴らしいことに思えますが、障がい者が自分でできることその自由を奪っているという見方をすれば、それは人権侵害と似て非なるものになってしまいます
体・心にハンデがあったとしても、
一人の人間であることに変わりはありません
その人には、何ができて何ができないのか。それを理解し必要な分だけ配慮をする、それが配慮する側にも配慮される側にとっても
ストレスのない形だと考えています