幸せも不幸も長続きしないんだってさ
どうやら思ったよりも幸せは長く続かないみたいだ。最高に幸せだと思った時間ほどすぐに過ぎ去ってしまうし、早く抜け出したいと願う悲しさの方が長く感じてしまう。
幸せはいつも長くは続かないし、かといってずっと不幸なわけではない。感情を永久に維持し続けるのは人間にはできないのに、悲しい思い出の方が嬉しい思い出よりも鮮明に残っているのはなぜだ。
そして、不幸が終わったらまた幸せがやってくる。その繰り返しの狭間を僕たちは生きている。どんな感情も終わりがあって、今の感情が永久に続くわけではない。
だから悲しいからといって泣き続けることもできない。涙袋に目一杯貯めた涙を流し尽くしてしまうともう泣けなくなってしまう。泣きたいのに泣けないのだ。どれだけどん底まで突き落とされたとしても、その悲しさは少しずつ薄まり、やがて何もなかったかのように日々が動き出す。
そして、他人や自分に怒りを覚えてしまうときだってある。怒りは体力を消耗するものだから永久に怒り続けることはできない。怒りは時間をかけて少しずつ収まっていくものだから次の日には忘れてしまっているときもある。
いろんな感情があるから人生は面白いし、もしも一生幸せだったら僕たちはそれを幸せと呼べるのだろうか?幸せを堪能した後は、また別の幸せを求める。その繰り返しを続けるだけだから飽くなき探究心って奴は一向に消えない。
何不自由ない暮らしに飽きて、今に満足できず、別の幸せを求めるのが人間の性ってやつでしょう?
幸せも不幸も長続きしないもの。でも幸せってどこに落ちているんだろうか?不幸ならすぐに見つけられるような気がするけど、幸せの落ちている場所はなかなか見つからない。いや、そこにある幸せを見落としてしまっているだけなのかもしれないね。
幸せとは本来なるものではなく、そこにあると気づくもの。自分が幸せだと思えば幸せだし、不幸だと思えばすぐにでも不幸になれるそんな単純なカラクリだ。そのカラクリに気付けず、今目の前にある幸せを取りこぼしている人はごまんといる。
でも幸せを見つけたとしても、その幸せは長続きしないから、また不幸な自分を演じるようになってしまうから人生って奴はとても難解だね。人生はシンプルに言ってしまえば、幸せと不幸を繰り返す旅なのであろう。
一人ひとりに一括りにできないそれぞれの物語があって、ドラマのような展開があったり、なかったりもする。どんなプロットを描くかはその人次第で、自分なりの主役を勝手に演じてしまえばいい。
プロットを描くときに、幸せも不幸も両方あることを前提とするならば、幸せと不幸の割合はどうせなら幸せが多いほうがいい。でもずっと幸せのままでいるのは無理な話だから、なるべく目の前の幸せに気づける人間でありたいなと。
幸せと不幸のラットレースからは死ぬまではどうせ逃れられないから、幸せの割合を増やす努力を自分ですればいい。