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たとえ何者かになれなくとも
自分が何者かなんてわかりっこないし、もはやそんなものはどうでもいいことだ。
それなのに人は何者かになろうとしたがる。
何者かになんてならなくたって、生きていけるのにも関わらず、僕らは何者かになろうとする。
どこかで物語の主人公みたいな気分になることがあって、そして、やがて自分が何者でもない平凡な人だということに気づいて、自分にそして、世界に絶望する。
自分が何をやっているかを知ってもらうためにも、肩書きは必要なのかもしれない。
でも肩書きはその人の一部であって、肩書きだけではその人の全てを表すことはできないんだよね。
僕は文章を書いている。そのほかにも企業の広報的なことをやったり、企画を立てたりすることもある。僕の肩書きは「ライター」であったり、「プランナー」であったりする。
でも僕が抱える肩書きが僕自身を全て表すわけなくて、肩書きはしょせん「サトウリョウタ」という人間のひとつの顔でしかない。
誰もが何者かになろうとして、自分が何者かわからなくなって、停滞する。
1つ疑問なんだけど、停滞って悪いことなの?
停滞って聞くと、ネガティブなイメージを持つ人が多い。
でも停滞することが必ずしも悪いことだとは思わないんだよ。
停滞は安定していることと同じ意味で、進み続けることよりも安定できる人のほうがやっぱり強い。
安定しながらも前に進むためにもがき苦しむ。そのほうがよっぽど人間らしくていいじゃないか。そんな生き方も悪くないよ。
もし今停滞気味だなって思ってる人がいたら、心配しなくても大丈夫だよ。前に進むための準備期間だと捉えたらいいし、悩み苦しむ時間は絶対に無駄なんかじゃない。
てかさ何者かになってどうすんのさ?
この問いに対して答えを持っている人はいるのか?
きっとみんな明確な答えなんてものを持っていない。
何者かを目指す背景には、もしかしたら自分は自分にしかなれないことを認めたくないという理由があるのかもしれないね。
事実は残酷なもので、どれだけすごい人に憧れたところで、その人には絶対になれないし、同じことは絶対にできっこないんだよ。
自分が平凡であればあるほど、何者かになることに憧れを抱いてしまうのではなかろうか。
平凡であること。できない自分を認めること。
おそらくほとんどの人が平凡だ。僕も例外ではない。
大人になればなるほどできないことが露呈していくばかりで、たまに自分のことが嫌になることがある。
できない自分を、平凡な自分を認めることは難しいし、とても勇気のいること。
でも無理に何者かにならなくたっていいじゃないか。
自分は自分にしかなれない。
自分が平凡であることを認めることで、誰かに頼らなくては生きていけないということをこれでもかと思い知ればいい。
人は1人では生きていけない。1人で生きていると思っているならそれは傲慢な考えでしかないんだよ。
今ある食べ物も、衣服も、住居も全部、誰かが作ってくれている。そのことを忘れてしまっていやしないだろうか。
生きていくには必ず誰かに頼らなくてはならない。
誰かと共に生きていくなんてとても素敵なことだと思うんだよ。
もしも困ったらぜひとも誰かに頼ってしまえばいい。頼られる方もきっと嫌な思いはしないだろうから。
「困ったときはお互い様だ」というような関係性を、僕は築いていきたいんだよ。
人に迷惑を掛ける代わりに、誰かの迷惑も笑って許せるようなそんな人間でありたい。
1人で生きていかなくたっていい。支え合って誰かと共に生きよう。
あなたは何者なのか?
きっと自分を一言で、表すことができるそんな雄弁な言葉なんてものはない。
いや、もういっそのこと何者かになんてならなくていい。
たとえ何者かになれなくとも、君は君の、僕は僕の人生を歩んでいけばいいんだよ。
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