8/4 読書会 『一向一揆共和国 まほろばの闇』(2014)ちくま文庫  レポート

レポート寄稿:Nさん(八木が代わりに掲載いたします)

保守王国とされる金沢市と過去の一揆による100年の自治の関係について、五木寛之さんのエッセイをもとに考えました。

五木さんは金沢をこよなく愛する作家で、ここを舞台にした『内灘夫人』(1969)、『朱鷺の墓』(69-78)などの小説もあります。ご縁は深いものの郷土作家ではなく、むしろ外部者としての視点が特徴的です。朝鮮半島からの引揚者としての根無し草の意識(デラシネ)、ここが私の故郷ですというものがないところから出発して、人間の連帯のあり方を探る。これが20世紀後半に多くの人の共感を得たのですね。

60年代に売り出した「流行作家」なので、やや陳腐なところもあるのですが、参考文献とか見ると意外に硬派でまじめな人です。1980年以降、休筆して龍谷大学に通い蓮如を研究したそうで、それ以降は日本古来のもの、風土と宗教性に没頭していきます。その画期となった小説が『風の王国』(1985年)で、課題本の後半がその舞台裏にあたります。描かれているのは、中央の正義に対置される別の正義、アウトローの正義です。

「日本のこころ」といいながら、彼が探しているのは「自分はどこに属しているのか」という問いの延長で、「排他的な地縁性ではない、そこから切り離された人々の連帯」のようです。内灘闘争や学生運動に見ようとしたものを、一向一揆にも投影しているかと思うのですが、それを「まぼろし」と呼んでいるのは逃げともとれますね。 

読書会では、一向一揆についてとっても具体的で興味深い話が聞けました。

「宗教共和国」の実態はどうだったのか、当時の北陸や金沢はどんな場所だったのか、その後の時代における「一揆」の評価の変遷から、「一揆」に対する現代の人の認識、加賀藩による賢明な統治、今も残る浄土真宗文化、町おこしによる伝承発掘と歪曲、弱者救済や仏の前の平等という親鸞の教えはマルクスにも聖徳太子にもつながっている、等々とても書ききれません。特に印象に残っていることを記しておくと

1.100年続いた「百姓の持ちたる国」の自治の実態については、実はあまり研究されていない。資料が少ないことが原因で、寺院関係のものが中心になっているため視点も限定される。今後まだまだ研究の余地がありそうです。

2.北國新聞が「百姓ノ持タル国の百年」という連載を続けています。

https://www.hokkoku.co.jp/subcategory/st-hyakusyonomochitarukuni100,%E7%9F%B3%E5%B7%9D

現在65回目です。図書館の新聞データベースでチェックしましたところ、なかなか面白い企画でした。記者たちがあちこちの史跡を訪ねて関係者に取材し、これまで取り上げてこられなかった歴史の断片を拾い集めて、巷に浸透しているものとは違う一向一揆の側面を明らかにしていこうとしているようです。最終的にどんな一揆像が浮かび上がるのか楽しみです。

3.「一向一揆共和国」というタイトルの矛盾。共和国は政治から宗教を排除したところに成立するはずなのだけれど、宗教が自治の媒介になることをどうみるか?これは、いま問題になっているカルトの政治介入ともかかわる問題です。

宗教動員の威力は、現代でも証明されていますね。みんなで集まることの楽しさ、セレモニーの陶酔感を利用して、とんでもなく非理性的な行動に走らせることも可能です。だとすると政治イデオロギーによる大衆動員に、類似の危険はないのか?実際に、日本の選挙戦をみていると、現在の社会組成と選挙制度のもとでは理論を訴えることなんか二の次になっていると感じます。そもそも「下からの民衆革命」という政治思想は科学的で、宗教思想は魔術的と言い切れるのか?

4.そして「聖徳太子と親鸞」の関係。かつて大日本帝国の時代に浄土真宗の僧侶が戦争動員に先頭になって活躍したことがありました。天皇制の神の国と衆生救済の宗教を結びつけるのが聖徳太子だったという説明を岩津さんがされていましたが、なんだかとっても倒錯した理屈で戦争協力して門徒を出兵させたようです。これについては、岩津さんが参考になる対談のリンクを送ってくれました。

浄土真宗とファシズムの問題について、五木寛之と中島岳志の対談(2017年)がありますので、リンクを貼っておきます。

https://kangaeruhito.jp/interview/396

以上です。


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