4 months intensive course Day9

マイズナー 4 months intensive course 9日目。

今日もラウンドロビンから始まり、ノックアットザドアに取り組んだ。

今日も学びが本当に多い日だった。

特に最後に行った相手とのノックアットザドアが、自分の中で引っ掛かっている。
だから、ちゃんと言語化して留めておこうと思う。


見えている、ということ。
受け止めている、ということ。

今日この2つの事を考えていた。

見えているからと言って、相手の挙動を受け取っているとは限らない。
コールしているからと言って、相手の状態を受け止めているとは限らない。

見えていたとしても、コールしていたとしても、相手のすることを自分事として引き受けないという選択も、私たちは取ることができる。

距離を取る。スルーする。笑ってやり過ごす。おちゃらける。ブロックする。

相手との関係性において、何か、「本質的な」やりとりをすることを怖れる。
自分にとってとても大事なこととして、譲れないこととして、そこに踏み込んでいくことをやめてしまう。

私は、「本質的」というのはマイズナーにおいてとても大切な要素だと思う。
根本。真実性。上辺ではない、もっと奥にあるもの。
そこには「純粋さ」のようなものがあり、社会的な回路は存在しない。
相手からやってきて自分に起こる全てのことに素直で、抑えがない。
どうでもいいことで解消することも、やり過ごすことも、なかったことにすることもしない。


今日自分はスルーして踏み込むことをやめてしまった。心の中で諦めモードに入ってしまった。のかもしれない。
これは社会生活を送る自分の癖。

ノックされたドアを開けた瞬間、本当は色んなことを受け取っていた。
手をポケットに入れていること。声が小さいこと。じっとしていること。ニヤついたこと。鼻で笑ったこと。色んなことが目についた。

でも自分はそれらをコールしなかった。
コールは、やりとりをしていく中で自然に変わっていくもの、変わらないなら変わらないで良いと、自分は個人的に思っている。けれどもしかしたら、そんな考えに自分自身囚われすぎていたのかもしれない。
コールを素直にしていたら、スルーしたり、諦めの方向に向かわなかったかどうかは分からない。けどもしかしたら、相手の状態を受け止めて踏み込むことを、コールという行為が助けてくれたのかもしれない。今はそう感じている。

「コール」は、とても具体的な行為であると再認識した。
ちゃんと見ているからこそ、言葉にできる。
何となく眺めていると、言葉にもそれが表れる。
反対に、相手のことをまず言葉にしようとする前提があると、もっと相手を具体的に見ようということもあるかもしれない。これは壮悟さんの言う、「相手のエッセンシャルを見つけてやる」という姿勢に近いかもしれない。

相手の事実を何かピックアップして言葉にすることは、相手に繋がりを持ちに行く行為のように感じる。「コール」という行為それ自体に相手への能動さが否が応にも含まれているのだろう。「コール」はこれまで自分が考えていたものよりも、もっともっと深いものなのかもしれない。何周もしてまた原点に戻ってきた感じだ。自分にとって上手い付き合い方をしていきたいと思う。

あと今日はもう1つ書いておきたかったことがある。その最後のワークの中で内側が震える程大きい感情が出てきてしまったこと。この時のこともちゃんと言語化して考えておきたい。

ワークの中でこういう経験をすることは時々ある。でも決して多くはなく、自分としては稀な方だと思う。感情が出れば良いというものでは決してないけれど、そういう類のものにアクセスする許可を自分自身に与えることができるようになったのは、1つ成長した部分でもあると素直に思う。

けどその一方で、他にも考えたことがある。

「この感情は自分自身で増幅させてはいないだろうか?」ということ。

今一度立ち止まって、3モーメントをしていた時のことを思い出す必要があると感じている。

「流れ」ではなく「瞬間」。

笑顔でいたかと思えば、眉をしかめたり、
そうかと思えば、今度は真顔になってる。
その事実ひとつひとつをただしっかりと観察して、反応すること。
「流れ」というものはなくて「瞬間」が連なっていく。
「今」は「一瞬前」の続きではあるけど、「今」はやっぱり「今」でしかない。
「一瞬前」の瞬間とも、「一瞬先」の瞬間とも絶対的に違う。
「今」は「一瞬前」と「一瞬先」と繋がっていて「流れ」の一部分ではありながらも、ちゃんと孤立していて、いかようにも変化する可能性を秘めている。

そう考えると、今日のワークにも疑問の余地があるように感じる。
「自分に起こっていたことは、果たして本当に、毎瞬間相手のすることによるものだったのか?」

答えはイエスとも言えるし、ノーとも言える。
簡単に白黒つけられるものでもないような気もした。
本当であると言えるかもしれないし、反対に、見ていながらもちゃんと相手を受け取らず「前の瞬間」の続きをただ走ってしまっていたかもしれない。

「いま相手どう?」

初めてマイズナーに触れた時、何度も講師に言われた。
大きな感情が生まれた時こそ思い出したい言葉。
「流れ」ていくことは思考に入らずとても良いことだと思う。
でも反対に、「今」をちゃんと「過去」と「未来」から孤立させることで、過去に起こった怒りや悲しみを「今」簡単に手放すことができる。先の不安から自由になることができる。
その孤立させるということで大切になるのが、やはり今目の前にいる相手を「観察」するということだ。前に生まれた怒りや悲しみを大事に抱えるのではなく、「観察」するのだ。
大きい感情を見せるのが目的ではなく、その瞬間その瞬間真実に生きて、でも、目の前の相手とも一緒にいる。真実に生きるとは、自分の中に起こるものに素直になるということ。そして、自分に起こることは、相手のすることによるということ。
つまり、相手のすることで自分に起きた全てのことに素直に反応すること、これが今私が思う「真実に生きる」ということ。
そしてこれが私のしたい演技なのだと思う。

次回は「いま相手どう?」ということにもう少しフォーカスをおいて、目の前の相手のエッセンシャルを暴く姿勢で臨もうと思う。

おわりに

このnoteは全文無料で読めるようになっていますが、100円で購入できるようにもなっています。
演劇の話や趣味のランニングの話、読書の話や私自身の日々の体験を気の赴くまま細々と書いていこうかなと思っています。
頂いた100円は全額パレスチナ支援の寄付に繋げたいと思っています。
自分で書いておきながら自分の文章に100円は高すぎると思っています。なので、全文無料、100円は本当に心が動いたり、すごく良いものを読んだなとか、学びや気づきに繋がったと思って頂けた時だけで大丈夫です。
読んでもらえるだけで心はホクホクするので、気が向いた時に気兼ねなく読んでくださると、とっても嬉しいです。

前回の記事をご購入頂いた方、ありがとうございます。寄付に関しても、別途で記事を書いていけたらなと思っています。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

小比類巻諒介

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