【#13ジョージア】...と冷凍食品
ジョージアに入国し、首都トビリシに着いたのは夕方だった。心配だった反政府デモは、政府が法案を撤回したことにより治まっていた。
トビリシ旧市街は美しい。ナリカラ砦という古代からトビリシ を守ってきた城塞を頂点にして、急な坂になっているから雛壇のようにそれぞれ個性的な建物が見える。
絵になる光景だ。旧市街には欧州からの観光客が多く、誰がジョージア人か分からないほどだった。
宿の近くには5世紀に建てられた歴史をもつメテヒ教会があった。5世紀って本当?と思うが、4世紀には東ジョージアの王国がキリスト教を国教化している。
それほどジョージアの歴史は古い。風格のある建物、十字を切る人々を見て、キリスト教の国を訪れるのは初めてだなと思う。
街にはチェーン店というより個人経営といった雰囲気のベーカリーが多くあった。ジョージア人がパンを真剣に選んでいるのを見たり、パンを抱えて歩いているのを見ると、パンが主食の国に来たと実感する。
ジョージア料理も美味しく、オジャプリというジャーマンポテトのような料理が特に好きだった。
旧市街にあるシオニ大聖堂は印象に残っている場所だ。小さな建物で外観に派手さはないが、内部に足を踏み入れると、その静謐さに圧倒される。「うわぁ」と声に出すほど、場の迫力を感じる。蝋燭の香りに牧師の説教の声。
それからもジョージアでは数多くの教会・聖堂を見たが、この聖堂に並ぶほどのものは少なかった。建物の立派さ、大きさとか内部の壁画の豪華さでは計れない歴史の重み、ジョージア正教会の総本山としての矜恃を感じた。
ただ、旧市街の賑やかな街並みを離れて、郊外に行くとトビリシの印象は一変する。年季の入った高層の共同住宅。その廃れようがすごい。休場凌ぎで急いでこしらえたといった感の無個性な印象を与える。
かつてジョージアはソ連支配の社会主義国だった。独立して三十年経つのに、ソ連時代の(異様に長いエスカレーターの)地下鉄や、建物、地下通路をいまだに使っている。共同住宅には洗濯物が干してあり、住民の声が聞こえ生活感がある。
どれだけジョージアがソ連やロシアを憎み、EUとともに歩むべく国家運営をしていても、こうした負の時代の遺産は継承して利用しているんだなと思った。国家だって人間だって過去からは逃れられない。歴史は変えられない。
それなら物事の良い面を見て、教訓なりを次に生かしていくことだ。ジョージアは強い国家だと感じたし、励まされる気持ちになった。
ジョージア北部のカズベキにも行った。盆地になっており、2,000m級の山々に取り囲まれている土地だった。人より牛の方が多い、街というより村だった。雪は降っていなかったが、山には雪が残っていた。
小高い場所にゲルゲティの三位一体教会という建物があり、麓から約一時間かけてハイキングした。終わってみれば、教会よりも道中の景色の方に満足している自分がいた。大自然はすばらしい。
ゴリというジョージア中部の街では、スターリン博物館を見学した。スターリンはこのゴリ出身で、ソ連トップの共産党書記長まで出世した。
スターリンに対しては権謀術数に長けた老獪な政治家といった感じで、あまり良い印象は持っていなかった。ただ、展示を見ていると神学校時代に優秀なレポートを書いていたり、マルクスの資本論を読んで革命家を志すほど読書家だったり、編集長時代に発行した機関紙があったり、かなり知力が高かったのかなと感じた。
スターリンが使用した服、煙草、チェス盤やクレムソンでの執務室などもあり面白かった。今でこそ共産主義が興盛を極めたことを現代人は知っているけど、当時は新しい考え方だったわけだ。
そんな保証もない革命活動に身を投じたことは、スターリンがリスクテイカーだったということも物語っていると思う。
クタイシというジョージア西部の街では、歯磨きをしていると同宿の中年男性に話しかけられた。「どこ出身か」と聞くと「ラシャ」と言う。ジョージアの地方の街かなと思っていると、ロシア(Russia)だった。
ロシアを離れて、トラックドライバーのライセンスを取るためにジョージアに二ヶ月滞在しているという。ポーランドやカナダでの取得も視野に入れているらしい。結婚しており、奥さんと子供がいるが、先行きが見えない不安からロシアを出てきている。
政府に批判的だが、母親を含めた家族はウクライナ侵攻を正義と信じており、意見の対立があったらしい。どこか悲壮感の漂う男性だった。俺は遊びのような旅をしているけど、この人は職探しのために家族を養うためにジョージアにいるんだと思い、複雑な気持ちになった。
その後もトビリシ の宿で、二人のロシア人青年と話す機会があった。一人は、大学で日本語や日本文化を専攻している青年で、日本語と英語を交えて会話した。一目で優しく思いやりのある人間だとわかった。
8月まで休学してジョージアに滞在するらしい。旅をしていた2023年3月の時点で、ウクライナ侵攻はすぐに終わるはずと言っていた。しかし、一進一退を繰り返す戦線の膠着を見ても、俺はそうは思えなかった。
ロシアでは召集令状が届くと戦地へ送られるため、回避策として出国するケースが相次いでいた。といっても、EU加盟国へは観光ビザで入国できないため、ビザなしで入国できるジョージアやアルメニア、トルコ、タイといった国々に行くのだ。
バックパッカーの泊まるような安宿での気の休まらない暮らしが、彼の想像する以上に長引くだろうと考えると同情した。クタイシのロシア人男性も同様に招集令状の受け取りを拒むために国外に脱出したに違いない。ウクライナ侵攻の余波を改めて目の当たりにした瞬間だった。
日本が侵攻されるなどして戦争状態になったとして、俺は戦争に行くのか、それとも逃げるのか。日本人の俺なら「簡単に答えの出ない難しい問題」と先送りにできるけど、このロシア人たちは否応なしに答えを出してきた。
祖国の正義なき戦争のため戦地に赴くことも、この人たちのように祖国を裏切ったと言われかねない逃亡をすることも、苦渋の決断だ。皿に冷凍食品のヒンカリ(ジョージアの餃子)をよそって食べていた姿が強く印象に残っている。
カズベキからトビリシのバスターミナルに戻り、ゴリに行こうとするときのこと。昼ご飯としてパンを買うためにショーケースを見ていると、ベーカリー横のケバブ屋の男性から「どこ出身?」と話しかけられた。
「日本」と答えると、日本の硬貨とジョージアの硬貨を交換してくれないかと言われる。いつの間にかベーカリーの若い女性店員と中年女性の店員も会話に加わっていたので、一円玉と十円玉を全員にあげると、「ビューティフル」と言って子供のように喜んでいた。
ジョージアに来るまでは、キリスト教徒はもう真剣に祈っていないと思っていた。神が世界や人間を創ったとか、もう信じてないだろうと思っていた。
ただ、実際は教会に行くと熱心に祈るジョージア人を何度も見かけた。
ちょっとした信号待ちで近くに教会があると、教会に向かって十字を切ったり、バスで教会の前を通り過ぎるときは十字を切ったりするジョージア人もいた。これは形だけではないと感じた。敬虔なキリスト教徒が多くいた。
クタイシでは、公園やバス乗り場前などで昼間から中年男性が集まって話し込んでいた。インドのバラナシでも同じような状況を見たけど、何をそんなに熱心に話すのかと思うほどで、微笑ましかった。
大学では政治と社会が違うということを学んだ。政治はわかる。でも、「社会が強いってどういうこと?」と当時は意味が分からなかった。今となってはこういう非公式な繋がりのことだと思う。
何もこの男性たちは「15時から公園に集まろう」とスマホで連絡を取り合っていたわけではないだろう。ただ、ふらっと公園に寄ったのだ。それで、同じように知り合いが来ていて雑談しているだけだ。地域でのちょっとした結びつきというか、そういう空間が日本には少ないなと感じた。
ジョージアの歴史、宗教、大自然や、現代の国際政治などに思いを巡らせた日々だった。一週間の滞在を終え、トビリシから隣国アルメニアに向けて、オーストラリア出身の若者たちやアルメニア人とともにバスで向かった。大雨が降っていた。
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