「カイロスのmilkyway」/ 掌編小説
駅前の通りを折れ、雨上がりの真っ直ぐに伸びる夜道を歩む。
靴音は水の気配を孕むアスファルトに絡め取られ、なんだか自分が野良猫になったかのような気がした。
君と別れた後、そのまま素直に帰宅するのが惜しくなった俺は、時折ふらりと訪れる落ち着いたバーのドアを開いて滑り込む。
別に家に帰りたくないわけではなかったし、また帰らないわけにもいかない。
ただ、少し自分の時間が欲しかっただけだ。
それくらいの自由があっても良いだろう。
丁度店内に流れていた間延びしたようなレフト・アローンが終わろうとしており、俺は少しほっとしてカウンターの隅に腰を下ろす。
なかなかのタイミング、今はこの曲が聞きたい気分じゃない。
金曜の夜だからだろうか、店内を横断するカウンターの半分、そしてフロアに浮島のように点在するテーブル席もほぼ埋まっていた。
いつもと変わらず、店内には水底のように落ち着いた空気が流れている。
沈没船がいつしか漁礁となり、その中に集う一匹の魚になったような感覚が心地よい。
「いらっしゃいませ」
「モヒートを」
「シロップ抜きで?」
「その通り」
「今夜はイエルバブエナが入りました」
「素敵だ、いい日に来た」
馴染みのマスターと、含み笑いで交わす。
チャームは、ずっと変わらないサイコロのようなオリジナルのピクルス。
本場仕様の爽やかなモヒートとピクルスの酸味が相まり、蒸し暑さがすっと引いた気がした。
今日後半の出来事を振り返る。
君との時間を。
会話の内容は自在に飛躍し、とりとめのない展開をみせながら、しかしふざけているわけでもなく。
まぁ、いつも会話の脈略を在って無いようにさせるのは俺なのだが。
細やかな望み、例えば車窓からちらりと見かけただけの公園を歩きたいとか、どこか知らない町の商店街を歩いてみたいとか、素朴な事を語り合う。
時には...何だったかな、忘れちまった。
何時だって、話に夢中になり過ぎてさ。
何時だって、時間なんかあっという間に過ぎてしまうんだからな。
俺らはまるで、ペガサスの翼によりカイロスの世界へ連れ去られ、この世のしがらみによりクロノスの世界へと連れ戻される。
そんな表現がしっくり来る。
思えばさ、初対面から不思議だった。
かなり久しぶりに訪れた店、そしてそこに後から入って来た君。
それだけだ。
改めて振り返ると、あれからまだ半年も経っちゃいない。
人生とは、相変わらず油断がならない。
偶然に見せかけた必然。
だってさ、皆が必然だと解っていたらどうだ?
感動も、驚きも、不思議も、華やぐようなロマンも、全て色を無くしてしまうさ。
だからな、こういうのは宇宙や天使やその他諸々によるスパイス。
ちょっとした、刺激過多な茶目っ気なんだろうよ。
「あなたって、得難い存在」
そう君は俺に言ったが、俺だって君の存在には驚きだ。
こんな隠し玉を用意してたなんて、全く宇宙は無邪気にも程がある。
俺と君はさ、...いや、俺と君がイノセンスな冒険なんじゃないかな。
まるで別の物語のロールプレイングゲーム、その主人公同士が酒場か宿屋でばったり鉢合わせ。
そこから、もう一つ別の新しい物語が始まるみたいにさ。
本編で、やり残した事を遂行するような、綴り忘れた余話、みたいな感じで。
お互いを既によく知っている、しかし今はその記憶を失くしちまってるから、思い出そうとしてるのかな。
では思い出したからといって、だからどうだ?
それはそれでもういいさ。
今の自分たちだからこそ味わえる、そんな体験を新たに味わってみたらいいんじゃないだろうか。
クロノスの世界に追い立てられ、失いがちな色々に結わえた手繰り糸。
それを手元に引いて、感覚を巻き戻しているような気もする。
僅かに学生時代に戻ったような、そんなニュアンスも感じながら、しかし学生の頃には解らなかった事も今の俺には解る。
外した腕時計。
微かに揺れる睫毛。
深みのある色できらりと艷めく瞳。
鍵盤を奏でるしなやかな指。
とても、色っぽい。
一日どころか、初対面に遡り振り返っていた。
ふと目線を上げると、久しぶりに目にした女性バーテンダーが硝子の小皿を手に微笑んでいた。
品のある白髪混じりの髪をいつもと同じように一つに結わえ、黒のベストと蝶タイが凛として。
「天の河で、何か落し物でも?」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、彼女はカウンターに涼やかな皿を置いて戻って行った。
硝子の上に、短冊を模したフォルムの干菓子がぽつり。
ふと、右腕のクロノグラフの小窓を見る。
( 7 )
あと少しで日付けが変わろうとしていた。
やや離れた街に住む君は、電車に揺られ今頃天の河を越えた頃だろうか。
「次は...秋口かしら」
そう言った君の言葉を思い出し、その言葉が俺の耳元でつむじ風を作ったような気がした。
まだ...夏はこれからだぜ?
カイロスの世界に想いを馳せる。
その世界には、きっと始点も終点も存在しない。
メビウスの輪のように。
けどな、もし君が俺の世界から消えてしまう時がやって来たら、その時は一言残して欲しい。
そうでないと俺は、出口を見失った世界で淡い霧に目隠しをされている、そんな虚ろな気持ちの破片を、心にひとひら刺したままになりそうでさ。
その一言はきっと、あの神話の牡羊のように救いとなるだろう。
俺は干菓子を摘むと、そっと口の中に入れた。
モヒートのグラスには結露が伝い、ここにも一つ、小さな天の河が静かに煌めいた。
🎋
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過去作品を時々公開してみようかな...と企んでいたら、書いたことすら忘れていた七夕に因む掌編を見つけましたので...この機会に一つ公開してみようと思ったのでした…I˙꒳˙)
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