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「春の音」 / 散文


(どれ、ひとつ春のでも拾いに行くか...)

そのような事を思い、ふらりと散歩に出るてい で近くの公園までやって来たわけなのだが、しかしそれは同時に逃避行のようでもあった。
(嗚呼ああ 、今日こそは着手しようと思っていたのだが...)
そう思わせる物が、家の中に幾つか在るのは確かである。
されどこの日、この時に吹く風は一期一会であり、そんな風に誘われて表に出てしまったもので、最早これはいわゆる不可抗力というものであろう。

どうにも表に出て、季節の動きを感じて回りたかったのである。
(うむ、不可抗力なのだ)
そのように思い、人気ひとけ のない公園のへり をゆったりと歩いて回る。



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未だ三寒四温とも言い難く、やや温んだかと思えば急に冷え、夜風はまるでバニラアイスクリームを幽閉した冷凍庫のようだと感じる時もある。
だがそこには冬の名残りを感じられもし、また冬は粛々と冬というものを体現しているのだなという気させられる。

少しづつ季節の舞台の袖へと向かう冬の後ろ姿、するりと地を滑る装束 しょうぞくの裾-。
その裾が通り過ぎた きわからは小さなした草たちが目を醒ましはじめて、小花の幾つかも現れよう。

見上げると、薮椿 やぶつばきの鏡のような葉はすでに初春の明かりを照り返して久しいように見えたものである。



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自然に流れゆく水のように、散策の足取りはふらりと寺へと向かう。
時折訳もなく訪れてしまう場所であるが、小川の脇に素朴に揺れる草花のような、そのように漂う気配が好ましいのである。

まずは贔屓ひいき の弁天に挨拶をし、階段を登った先にある毘沙門天堂の周りをぐるりと歩みながら空や風にのって遊ぶカラスを眺める。
翻る仏旗 ぶっきも楽しげで、朗らかな空気のなかでは欠伸 あくびの一つも漏れるものだ。



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四方を見渡せる堂の広場より、現れては姿を変える雲を眺める。
季節を繋ぐ山茶花 さざんかは次々に開きながら鮮やかな花弁で地を彩り、春の先陣を切ってほころんだ蝋梅ろうばい は清らかな香りを放っていた。
雲を運ぶ風のなかには、水仙の小さな笑みも含まれていよう。

堂を後にして気侭きまま に歩き回る。
池に注ぐ水の音がまろ やかに大気を発酵させ、手向けられた香華 こうげは穏やかな眠りを誘い、時折響く鐘の音が揺りかごのように境内の空気をあやしていた。




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本坊に踊る数体の龍を見上げる。
何時ぞや見た夢で、この龍たちが談笑しながらこちらを見ていたことを思い出した。
この日も変わらず りゅうとした姿であったが、はて、どの龍のまなこ も磨かれたように鮮やかに見え、何時もより爛々らんらん として感じられたのが印象的であった。
そんな龍たちに挨拶をし、脇の小さな門より寺の外へと歩き出す。

石垣沿いでは、終わりかけの八重咲き水仙がそれでも凛とした表情をしており、ついその前にしゃがみ込んで言葉をかける。
くすのきの葉が石畳の上を風に滑り、何やらの野鳥が樹上で午后を歌っていた。




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寺を出てふと小さな通りから空を見上げると、そこにはゆったりと龍が横たわっていた。
(おや、お見送りとは有り難い...)
ゆるやかに風に運ばれる龍と連れ立つなど、なんとも乙な帰り道ではないか。


髪を さらう風は冷たいが、胸の内には穏やかな温もりが一つ灯り、含み笑いのような足取りで龍を見上げながら歩み去る。
寺から離れると、空の龍も角砂糖のように柔らかに形を変えて、大気のなかに溶け込んでいった。


そして龍と別れてすぐ、湧き上がる雲のように心の中に浮上したのは
(嗚呼、浪漫に満ちたものを綴りたいものだ!)
という想いだった。
これは一体どういう事なのであろう。

その衝動にも似た想いには我ながら驚かされたが、狐につままれたような気分で歩んでいると、側で冬咲きの桜が朗らかにこちらを見ていた。


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漠然と思いを馳せる。
それは例えば、人工知能とやらには ついせぬであろう心模様、感情の機微 きびではないだろうか。
天と地の間に立つ人というものには、それを感じ、 あらわすことが叶うのだ。


我々人は、人であるということを改めて意識せず漫然と暮らしているものだが、本来人だからこそ感じられ、また享受できる恵みがあり、ひいてはに還すことが出来る力も持ち合わせていよう。


人が人であるという事は、きっとそれだけで素晴らしいのだと思う。
(ただ、皆がそれを失念しているのが今の世なのかも知れぬ...)
そんな風に難しいような事を頭の中に浮かべてみたが、何だか浪漫が影を潜めてしまったように感じた。



頭脳ではなく、心。
数多あまた の命を育んできた太古の温かな海のように。
世界に顕れている美しさを見付け、感じるままに感じ、 たたえ、表現してゆきたい。
そんな風に感じた。

木蓮のつぼみは丸みを帯び、笹は浅緑の葉を揺らしのびやかに世界を攪拌かくはん していた。



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ポケットの中から微かに漏れるのは、鍵に結わえたガムランボールの音色で。
曹灰長石 そうかいちょうせきがあしらわれた小さな銀色の世界から生み出された音霊が、鈴のように清らかな春の音に重なり、親和していた。



初春の空は悠々と水を湛えた湖のように宵の色を増してゆく。



その汀をゆうらりと歩み、家路に着いた或る夕べのこと。



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