少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE-#2 revival を観て泣いた

7月13日、舞浜アンフィシアターで僕は泣いた。


この日は「少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE-#2 revival」を観劇した日だ。

スタァライトというのは……ここでは詳しくは書かないが、簡単に説明すると「舞台とアニメの2メディアを主軸に展開するブシロードの作品」だと思ってもらってかまわない。そしてこの「#2 revival」は「2018年の10月におこなわれた舞台版の再演」という意味だ。

スタァライトが面白いのは、舞台での活動がメインのキャストを半分近く入れていることだ。なおかつ、アニメ版と舞台版のキャストは同一なので、観客はまるで役者とキャラクターが混ざりあったような感覚を持って作品を受け止める。このことは以前noteにも書いた。

とまあ、前段の話はこれくらいにして本題に入ろうと思う。

改めて書くが、今回は再演である。すでに一度おこなった舞台をもう一度やるというのは、ナンバリングの付いた舞台では珍しいなと思う。ここにブシロードなりの戦略があるのだろう。

再演で変わったことは何か。ひとつは場所だ。#2の初演は天王洲にある銀河劇場だったが、今回は舞浜アンフィシアターである。
アンフィシアターに行くのは初めてだったので知らなかったのだが、半円形の張り出し舞台があり、さらに旋回機能のついたステージリフトも設備されている。これが演出に大きな変化を与えていた。

( http://www.maihama-amphitheater.jp/organizers/stage.html )

リフトはキャラクターの出ハケをより魅力的に演出していたし、張り出し舞台と、観客席を中央で分割している通路は、1部の舞台と2部のライブで十二分に活用されていた。あれは観客からすると相当に嬉しいサプライズだったと思うし、一層スタァライトというコンテンツに対しての想いが深くなった瞬間だったと思う。

もうひとつ変わったことがある。それは言うまでもなく、役者・スタッフの進化だ。スタァライトには「舞台少女は日々進化中」というセリフが登場する。まさにこれなのだ。再演というかたちをとることで観客は「理解」する。ああ、単なるセリフではないんだ。彼女たち(それはキャラクターでもあり役者でもある彼女"たち")は舞台少女であり、日々進化しているのだ――と。約10ヶ月を経ての再演だからこそ視えた景色だろう。

作品自体の内容については深くは書かない。ただ、自分の心に残ったシーンをいくつか書き記しておきたい。

双葉の叫び
序盤、青嵐総合芸術学院の八雲先生に手も足も出なかった双葉の「なんであたしはこんなに弱いんだ」の叫び。鳥肌が立った。泣いた。
そうだ、これが舞台だ。TVの画面越しに観る画でもなく、イヤホン越しに聴く声でもなく、眼の前にいるひとりの役者の、身体の奥底から沸き立つ情動が、空気を伝わってこちら側の腹ン中にズドンと響く。これが舞台なんだ。アニメーションの演技とはまた違う、身体表現のタイムラインから生まれたもの。もう巻き戻して観ることのできない、一瞬の輝き。
あのシーンはしばらく忘れることができない。できることなら、いつまでも覚えていたい。

ばななが勝ち取った勝利
#2には九九組 (スタァライトの主要キャラクターの総称)に因縁のあるキャラクターがほかの高校の生徒として登場する。そのうちの一人に「ばなな」こと大場ななと過去でつながっている氷雨がいる。舞台の中盤、九九組と青青との団体レヴュー(団体戦)が開催され、ばななは氷雨と対峙することになる。結論から言ってしまうとこのレヴューはばななが勝利を収めることになるのだが、そこでは「過去に固執しない」ことがキーワードとして出てくる。ここが肝だ。
この#2、時系列的にはTVアニメ版の後の物語である(舞台版が正史なのか、他の世界線なのかはここでは深く考えない)。つまり、ということは……TV版を観た観客には、ばななが「過去ではなく未来を見る」選択を採ったことに感極まる他ないのである。もちろん泣いた。
実のところ、スタァライトにおいて「勝ち負け」はさほど重要ではない、と自分は考えている。むしろ結果に辿り着くまでの過程、そして「どこを目指すのかという自分自身の意思の強さ」こそが本質的な勝利だ。それは敗者のいない勝利でもある。……というのはわかりつつ、#2ではレヴュー(戦闘 / 殺陣)が開催されるものの、結果はあやふやなまま、最終戦へと突入する。そんな中、九九組側で明確に勝利したばななが、しかもTV版の文脈を携えてあのように至ってくれたのには、「ありがとう」というしかない。

この2つ以外にも、心を揺さぶられたシーンはいくつもある。
とても個人的なことを言わせてもらうと、もはやシーンではないのだが、やはり皆美と輝ちゃんが舞台に立っている姿は僕にとっては特別だ。

皆美とは……今年でもう17年になるのだろうか。高校時代の同期が、今も舞台の第一線で活躍していることは、ただひらすらに尊敬する(この感覚は皆美に限らないし、念のため付け加えると舞台を続けなかった同期に対して何かしら思う、なんてことは一切ない)。
この年齢になって感じるのは「継続する / できる」ことの尊さであり凄まじさだ。続けられるとはどういうことだろうか。舞台役者にとってのそれは、身体を壊さないことであり、演技を高めることであり、出演者をはじめスタッフとも良好な関係を築けることであり、ファンから愛されることであり、そして何より本人に意思と魅力があることだ、と思う。そうでなければ続けることは難しい。だから僕は、幕が上がって、佃井皆美が舞台に立っている、ただその事実に直面するだけでこみ上げてくるものがある。

輝ちゃんは僕をスタァライトに出会わせてくれた人だ(より正確に言うなら、あいだにもう1人いる)。輝ちゃんとの出会いがなかったら、このテキストを書くこともなかっただろう。ただただ「ありがとう」を伝えたい。
舞台に限らない話だが、ひとりの人間が一度しかない(それはただ一度のという意味ではなく、再現性がないという意味だ)ことに対して全力で向き合う姿を観ると「で、お前はどうなんだ」と問われているような感覚になる。今回の双葉の叫びが、まさにそうだった。と同時に、何かこの人の力になりたい、そのために自分も前に進み続けたい、と思わされる。この感情は皆美に対しても、ほかの高校同期に対しても同じだ。

ありがたいことに今はデザインの職能で生きていることができているが、でもやっぱりそれだけじゃないんだよなあ、というのを舞台を観るたびに考えさせられる。舞台に立つみんなが日々進化しているように、自分も負けないように前に進んでいきたいと思う。
そんなことを考えていた7月13日の夜だった。

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Ryo Yoshitake | THE GUILD
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