奪われない資産を蓄積する経営

今日のランチ後に、業務に区切りがついてXをながめていたら、カーシェアサービスのエニカがサービスクローズするという投稿が流れてきた。その投稿をみて、サービスクローズ後にこの会社には一体何が残るんだろうなとふと気になった。

今読んでいる本に影響を受けまくりな気もしているが、企業が企業としての同一性を保ったまま価値を生み出すことができる理由は、究極的には、文化的資本によってしかない気がしている。

生産コストが下がり続けている現代においては、経済的資本はいづれ他社も獲得することができるだろうし、技術発展とともにいつかはガラクタになっていく。

不動産などの一点物の資産は、多分、資本主義が発展すると誰も所有できないものになっていく。より正確には、使用者が資産価値に対して、現在と比較してかなり大きな税金(今でいうと固定資産税だが、AIによるマッチング精度の向上によってよりダイナミックに変動するものになり、資産価値や所有者はオークション形式で決まるはず)を納める必要があるようになっていく。これは資本家が敵視され、機会の平等が進んだ結果であり、民主主義の成れの果てでもある。

固定資産を個人や法人が所有できる時代はまだまだ長く続くと思うけど、自分が死ぬ頃にはそうではなくなっているかもしれない。その頃には、資本格差が拡大しすぎて、資本家にとっての労働の意味が希薄化して、資本家から民主的に資本を取り上げないことには、市場に十分な労働力が提供されなくなる可能性があるから。(労働力が市場に提供されなくなると非資本家の生活が立ち行かなくなる)

こういう世界においては、もしくは、社会の変化のスピードが十分に加速した現代においても、ある程度長く生き残る企業というのは、文化的資本に基づいてニーズごと作り出すことができる企業だと思う。

文化資本によって生み出される以外の新しいニーズは、前提条件の変化(たとえばiphoneの登場のように)によって生み出されるはずで、誰がそのサービスを提供しているかよりも、どれだけ低コストで優れた便益を提供できるのかによって勝者が決まる。だから本来不必要な競争が生まれる。

注意しておきたいのは、文化資本が生み出すサービスは、競争が行われないので、効率がよく寿命が長いのであって、スケールするかどうかは別問題である。むしろ文化的資本が適用可能なスケールを読み間違えるとすぐに崩壊するまである。しかし、息が長ければ、経済的資本も蓄積しやすいので打席に立てる回数が多くなり、結果的にスケールしやすくはなる。

スケールしている具体例を挙げると、これは自分の好きな企業の特徴なのだけど、任天堂のゲームクリエーションに関して蓄積された無形資産は誰も奪えないし、マガジンハウスがつくるイケてる空気感も誰にも真似することはできない。

どちらの企業のプロダクトも、もしAIが企画から全てやっているという情報がリークしたとしたら消費者としては萎えてしまうだろう。

ここからわかることは、文化的資本は基本的に人に紐付けられるものであり、最大のプロダクトは企業や企業文化、そしてそこで働く人そのものになる。(実際、ユニクロの店舗に置いてある雑誌は、マガジンハウスから移籍された方が作っているものでめちゃくちゃかっこいいと、今日弊社のPdMの江藤さんに教えてもらった)

短期的な利益を追う経営者であれば、資産価値は働くメンバーではなく、できるだけ法人や自分の資産に紐づけたいと願うだろう。しかし、それは投機的に事業を行っているにすぎず、社会の前提条件がすぐに変わる昨今、なかなか長期的には生き残れないと思う。

自分はそもそも働くのが好きだ。そして、物事の仕組みを体験を伴って理解していくことが好きだ。
同時に、正直あまり個人として資産を持つことに興味はない。一方、資本主義のゲームに参加している以上はできるだけ上手くプレイした方が面白いと思っているし、死ぬまでこのゲームに参加し続けたいと強く願っている。

だから自分にとっては長く前提の変化に耐えうる資産を積み上げる方が良い。つまり、資産を蓄積すべきは、自分以外の人との間であり、作るべきは学ぶに値する文化、最大のプロダクトは価値を生み出す企業自体であるべきだよなと思っている。

じゃあこの文化ってなんだよという話になってくる。

文化は時系列変化に耐えながら徐々に築かれていくもので、他社が真似できないものだ。

創業したての企業にはパッションはあれど、淘汰圧にさらされた成功事例がないので別に学ぶべき文化はない。大概は学ぶべき文化を持つ企業から人材を引き抜いてきて部分的に文化を取り入れながら成長する。(ビジネスモデルによる裏付けのない、異常にゆるすぎる人事制度を見ると大丈夫かよと思う)

独自の文化とは歴史であり、前提条件の変化にどのように対応してきたかの蓄積である。環境の変化を正しく認め、適切に対応することによって文化は育まれる。伝統に固執することは文化ではない。文化とは連続した変化の蓄積である。断じて、急拵えのバリューとかミッションとかビジョンとかではない。

自分の会社はまだまだ若いけれど、少なからず前提の変化にさらされてきた。

都度行ってきた意思決定とその結果が、現在の戦略を可能にしていて、異なる意思決定をしていたら今の戦略は取りえない。つまり、過去と比べ、社会の前提が変わってしまった今からは、そもそも模倣不可能な文化を多少なりとも形成している。(すでにコロナを経験していない社会には戻れない)

今、0から会社を作れと言われたら結構ぞっとする。同じスタートラインに立って競争を始めたとしたら、きっと自分は自分より若くて優秀な人に勝てない。体力がないので。

数年間事業をし続けた今、少しずつ複利が効き始めている。この複利は、過去の意思決定に対して効いている。だからそもそも何かを始めるときの前提がすこしずつ違ってきている。

文化的資本とは、歴史であるという話をしたが、ではなぜ歴史を資本と呼べるのか?それは、生み出す価値の意味づけや方向性、さらには根拠が変わるからだ。これ以外には企業間に本質的な差別化要因はない。自社の歴史を強みに変換できないのであれば、代替可能な会社であると言える。

サンプル1の経験的には、文化的資本は資本構成とキャッシュフローの独自性に現れる。これがユニークでないなら、つまり面白く語れないなら、まだ歴史が浅いと思う。もちろん自分もまだまだ浅い。

長々と話してきたのでそろそろサクッとまとめる

結局は、

ユニークな事業計画を立てよう。それは自社が辿ってきた歴史の独自性を分析し、未来に対して正当化することで作られる。

みたいなことが言いたい。

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