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ePARAとともに明日を変えていくために

※この投稿は2023年7月より「株式会社ePARA」社員の仲間入りを果たした私長野(アフロ)が、自己紹介記事として弊社に寄稿したものです。



「苦手分野を克服して勝負できるほど、甘いものではない」

これは当時の私が抱いていた、仕事に対するイメージだ。
”当時”と言っても仕事を始めた時からずっと抱いてきたイメージなので、その範囲は広い。


自信がなかった子ども時代と今のつながり

「苦手分野を克服して…」なんて仕事に対するイメージを語っているけれど、3人兄妹の末っ子、二卵性双生児として生まれた私はとにかく自信がなかった。

「自分だけが障害者。できないことも多い」

だから小学校の6年間、たくさんの大人たちに囲まれて過ごした肢体不自由児学級(現:特別支援学級)では先生と1対1で勉強することも多かったし、そんな状況に見かねて高学年から始めた普通学級との交流学習でも、全く馴染むことができずに大きな挫折を味わった。

小学校1-2年生頃の私。先生と1対1で学習に取り組む。
小学校最後の運動会。この頃はまだ少しなら歩くことができた。
唯一違和感なく一緒に参加できたのは、こうした学校行事くらい。

中学・高校と本格的に特別支援学校に進学したのも、とにかく仲間が欲しかったから。コンプレックスのない環境で自らの言い訳を遮断し、部長や生徒会長といった役職にもどんどん挑戦。
その奮闘が認められて指定校推薦で大学にも進学を果たし、そして行った大学4年の教育実習で今につながる”運命の教え子”と出会うのだから、本当に面白い。

ePARAユナイテッドのチームメイト、つばさ 。
初めての出会いは今から13年前、私が22歳で臨んだ母校での教育実習でした。

変わったもの 変わらないもの

介護事業所職員6年。フリーランスとなって6年。

特に前半の6年は、健常者に追いつけ追い越せの精神でがむしゃらに取り組んだ。「いかに健常者と同じ土俵に上がるか」 
そればかり考えていた。

精神的な不調を自覚し、やがて身体に現れるようになってからもそこに固執し続けたのも、やはり過去の経験から。人には恵まれたものの唯一「介護ができない介護職員」だった私は、ただ1人社内で広報誌の作成や介護事務に追われた。

仕事の上では孤独だった。
こうして、最初の3年はあっという間に過ぎた。

その間にうつ病での休職を経験し、そこから復帰してからというもの、それまでの考え方をガラリと変えた。「自分にしかできない役割を探そう」と。

そこで、これまでの自分の経験を整理してみることにした。

そして辿り着いた答えが「(自分にしかない付加価値をつけて)人に何かを伝える仕事をしよう!」というものだった。

そのために行ったこと。
うつ病発症前からできる限り避けてきた電話応対や急な接客にも積極的に出て対話を増やした。先天性の脳性麻痺がある私は、話をする時に身体全身に力が入りやすいという特徴がある。そのため、予期せぬタイミングで掛かってくる電話は(急いで取るという動作をするだけで)筋肉が硬直し、声も出にくくなってしまうのだ。
最初はこうした特性を抑えるために苦労したが、慣れれば少しずつできるようになることが多いというのも、この障害の特長。

その度に「これって健常者とあまり変わらないじゃん」なんて思いながら邁進していたら、やがて本当にホームヘルパー養成研修の講師に抜擢された。

唯一、ユーザー目線で語れるスタッフとして、夢中で働いた充実の3年間。これが自分だけの付加価値。
この間に講師としてのスキルや経験はもちろん、どうすれば身体の力を抜くことができるか、少しでも通る声を出すことができるかなど、自身の身体特性と徹底的に向き合う時間を持てたことは、今に繋がる財産だ。
終盤には同時に社内研修の担当も一手に引き受け、ヘルパー育成の分野での役割に自ら終止符を打つと決めた。

フリーとしての活動、挑戦。一方で諦めていたもの

「30歳になる前に、今度は自分の障害特性を抜きにして挑戦してみたい!」

学生時代、そして社会人経験を通して自分の考えを伝え、まとめるという行為を幾度となく行なっていた筆者。その際に最も効率的かつ効果的だと感じていたのは”書く”ことだった。
口頭での対話は熱量を伝えるには最適だが、生まれつき行動制限があり、人生で会える人の数には限界があることを考えると、書くことでより多くの人に想いを届けられると思った。まだ会ったことのない人にも広く伝えられると思った。

何より、書き残しておけば受け手(読み手)の好きなタイミングで情報を受け取れる。それを受け取るか否かの選択肢も彼らに委ねることができる。それに自身の障害特性に関わらず、自分のペースで進めていける。

かくして、退職後まもなく執筆を開始。4ヶ月でA4 160枚の原稿を書き切った。その間、縁あって後押ししてくれる出版社とも巡り合い、修正を重ねて2019年の春に初著を出版。2年後の2021年夏には2作目を刊行することができた。


念願の目標を叶えた一方で、芽生えていたまったく別の感情。
それまで個人活動として行なってきた発信を、やっぱり直接的に皆さんに還元したい。障害の有無を問わずいろんな人が混ざり合い、本音で語り合えるコミュニティを創りたい。
2020年にはそんな想いでTry chanceを立ち上げた。

今では執筆や講演をし、自分で団体を設立するという道を選んだが、それは再就職を諦めたことを意味する。事実、1作目の出版直前に入社を熱望していた「障害を価値に変える」を標榜する企業の採用試験に臨むも、スーツを着ての出張業務に身辺自立が追いつかないこともあって撃沈。
この時、2度と企業で働くことはないだろうと悟ったのだ。

ePARAとの出会いで風向きが変わった!
本気で遊んで見つけた自分の役割

そんな私と株式会社ePARAとの出会いは昨年2月。
友人のとりちゃんから直々に「ePARAユナイテッド」への誘いを受けたのがきっかけだった。

「選手全員が車椅子ユーザー。現実世界ではみんなが諦めてしまったピッチを走り回るという夢を、ゲームの世界で叶えていく」

そんなコンセプトを聞いて心底ワクワクしたものの、それまでサッカーにもゲームにもまったくと言っていいほど親しんで来なかった自分が加入して、彼の夢を、そしてチームの足を引っ張ったりしないだろうか。
発足当初はもちろん、なかなか上達しない自分に苛立ち、真剣に脱退を考えたことも1度や2度ではない(苦笑)。

事実、1stシーズンでは実力不足を練習でカバーしようとやり過ぎた結果、手首を負傷。
テーピングを巻いて出場していました(笑)

それでも最高のチームメイトに支えられ、練習の甲斐あって少しは上達。アフロキャラが定着し、ユナイテッドのない生活は考えられない。
春からは恐れ多くも副キャプテン。今は仲間が楽しそうにやっている姿を見るだけで嬉しい。今後は表舞台であるイベント出演はもちろん、裏方や昨年から担当している記事執筆などチームの広報やマネジメント、会社が手掛ける様々な企画にスタッフとして少しずつ関わっていけたらと思っている。

もはやユナイテッドの名刺には【AFURO Ryo】と記載され、私の本名を知っている人は皆無に等しい気もするが、そんなことは関係ない。
ePARAの一員になったからにはより一層「本気で遊べば、明日は変わる」を体現できるよう、みなさんと一緒に全力で楽しんでいきたいと思います。

私たちの活動が、誰かのやりたいを少しでも後押しできますように。


どうぞよろしくお願い致します。

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長野 僚
いただいたサポートは全国の学校を巡る旅費や交通費、『Try chance!』として行っている参加型講演会イベント【Ryo室空間】に出演してくれたゲストさんへの謝礼として大切に使わせていただきます。

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