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もみ続けた肩、その報われなさについて

これまでの人生、歴代のパートナーたちの肩をもんできました。思えばわたしは肩もみマシーンのごとく、静かに淡々と肩をもむことに従事してきたわけです。

しかし、一度たりとも相手から肩をもまれたことがありません。この事実に気づいたとき、ふと涙がにじみました。いや、わたしの肩だって人間の肩です。ときにはもんでほしいのです。

まず肩もみが始まるのは、たいてい「今日は疲れた」という妻のつぶやきから。

ソファにくずれ落ちる妻を見て、なぜか自動的に「もまねば」というスイッチが入ってしまいます。まるで条件反射のように、わたしはその肩をそっとつかみ、グイグイと圧をかけてもみ始めます。

いわば職人の仕事のように。「ちょっと右肩の方がつかれてるかな?」なんて言葉を投げつつ、その絶妙な力加減で相手のつかれをほぐしていくよう心がけます。

すると、彼女は「そこそこ、気もちいい」と、安堵の表情を浮かべます。わたしも満足しますが、一方でその瞬間、わたしの心の中には一抹のさびしさもよぎります。

わたしも本当は、肩をもまれたいのです。肩をもんでもらうとは、いわば「きみも疲れてるよね、がんばってるよね」と、わたしの労をねぎらってもらうこと。

しかし、この「肩もんでほしいな」という要求を口にしたら、すべてが崩れてしまうような気がするのです。なんでなのでしょうか。病気なのかもしれません。

だから、わたしは黙って肩をもみ続けます。妻の肩に力を込め、わたし自身の肩にたまる疲れを少しずつ増やしていきます。

時折、「肩をもむ」という行為の本質について考えることがあります。これは一種の愛情表現なのだろうか? それとも、ただの奉仕なのか?

わたしが肩をもむたびに妻は安堵し喜びます。だが、その感謝はたいてい、ふわっとした「ありがとう」のひとことで終わるのです。

そして、わたしが「じつは私も揉んでもらいたい」という素振りを見せても、どこか聞こえないふりをされているような気がします。なぜでしょうか? わたしには肩もみを求める権利すらないのでしょうか?

そうして肩をもんだ後、ふと自分の肩を触ってみると、思いのほか凝っています。ゴリゴリと固まった肩を指で押してみても、いとむなしい感覚がするだけです。

結局、自分で自分を慰めるしかないという、悲しい現実がそこにあります。鏡を見ながら、自分の肩をもむというのも、なかなかにむなしい行為だが、わたしはそれをやってしまいます。

なんだか、セルフサービスで自分を甘やかしているような、妙な背徳感さえ湧いてくるのだから不思議です。いや、まてよ、背徳感か、、、この絶妙な哀しきセルフケアこそ私が求めているのかもしれません。

とはいえ、ある日、意を決して妻にこう頼んでみました。「肩もんでほしいな」と。

それはまるで長年の沈黙を破る心の叫びでした。しかし、彼女は少しおどろいたような顔をした後、「あ、そうなんだ」と一言、そしてその後なにごともなかったかのように、また自分のスマホに視線を戻してしまいました。

この一連のやりとりは、わたしの心に大きな傷を残したのです。肩をもむとは何なのか、愛情の証なのか、奉仕なのか、ますますその意味がわからなくなっていきました。

結局のところ、わたしは肩もみを奉仕と割り切ってしまうしかないのかもしれません。愛情がどうのこうのという理屈を超えて、肩もみという行為は「やってあげるもの」として存在しているようです。

たとえば、レストランでウェイターが食事を運んでくれるのと同じように、わたしは「肩もみ」という役割を果たし続けるのだろうか。

だが、それでもどこかに矛盾があります。レストランのウェイターでさえ、自分の食事は自分で準備してもらえるはず。でも、わたしは肩をもむだけで、いつまで経っても自分の肩は誰ももんでくれません。

この矛盾の中で、わたしは何を求めているのでしょうか? ひょっとして、わたしは肩を揉むことによって、他者とのつながりを感じているのかもしれません。それが、たとえ一方通行であったとしても。

こうして、わたしの肩揉み人生は続きます。そしていつか、きっと「あなたもつかれてるよね」と肩を揉んでくれる日が来るのではないか、という淡い希望を抱きつつ、日々、静かにその瞬間を待ちます。

もしかしたら、そんな日が来ることはないのかもしれません。しかし、もしも武蔵野のどこかで、肩をもまれることなく静かにひとり肩をもみ続けている孤独なわたしを見かけたら、どうか一声かけてほしい。

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