日記・なぜ人は嘘をつきたいのか

 エイプリルフールに嘘をつこうと思ってもあまりいい嘘が思いつかない。

 というより、エイプリルフールの嘘は加減が難し過ぎる。誰も傷つけず、真実味があって、しかしのちに嘘と白状する時に「なあんだやっぱりね」と思わせるような嘘でなくてはならない。

 こういう加減が難しいことを、4月1日は広く人々に求めようとする。試されているようでもあるし、安易にそのエイプリルフールの渦中に身を投じれば加減を間違えた嘘によって人々のセンスが陽の光のもとへと暴かれる。

 しかしごく稀に、右手で2階から目薬を差し左手で針の穴へと糸を通すような御業を見る時がある。

 4月1日の未明、人々は神によって紡ぎ出された瑠璃色の絵巻物に歓喜し──その歓喜はひと匙の猜疑心によってより天高く沸き起こるものだ──、やがて春の宴もそこそこに神は自らの手で絵巻物をもとの糸へと解きほぐしていく。

 神が嘘をつきたもうたのだ! 私たちは鮮やかなる神の手捌きのその指先にさえふれることが叶わない。

 あゝ、なぜ人がエイプリルフールに嘘をつきたいのか私には分かった。人は少しでも神の存在に近づきたいのだ。たとえ、天へ一心に伸ばしたその腕が羞恥の炎に焼かれようとも。


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