日記・浅田政志『だれかのベストアルバム』を見た。
家族という形が好きではない。昔からいまも、これからも多分そうだ。
水戸芸術館で行われている浅田政志さんの個展を見てきた。見るつもりはあまりなかったけれど、足がそちらに伸びて半ば吸い込まれるようにチケットを買った。
たくさんの家族の写真があった。家族とは? いまさら問い直すのも疲れるので一旦考えることはやめた。
最初は面白い写真だと思って流されるように見ていた。ゆるやかな流れに身を任せると浸かっている空気が暖かかった。
浅田家の写真から次に他の家族の写真へと展示の内容が変わった。ここで空気がぴりりとする。
1枚目、写真に写る家族全員が笑っていた。時間をかけて打ち合わせして、そしてその家族全員が「こんな写真がいい」と答えを出して撮った写真がそれだった。
涙が滲んだ。ああ、こんな家族があったら。そう思った。
最近、写真は過去を写すものだと思った。その写真を撮った一瞬を切り取って、特に複数の人が写る写真についてはその人々の関係性がそこに切り取られていると思った。
写真に写る人たちがどんなに仲が良さそうに見えてもそれは過去のことで、シャッターを切られたあとにどんな関係性が続いているかはまるで分からない。
写真に写るその一瞬を僕はどんなふうに見たらいいのか分からない時がある。それは羨ましさや妬ましさに支配されているせいなのかも知れない。
家族とは、あたたかいものなのか、僕はどうしても家族という言葉が持っている熱が熱すぎるのかぬるいのか、居心地がどこかよくない。
居心地のよくない家族の中で育ってきた。もとを辿ればそんなところだと思う。
幼い頃、海で溺れれば海を嫌うだろうし、山でひどく迷子になれば山を避けるだろう。僕にとって家族は溺れた海で迷子になった山なのだと思う。
うつくしい家族を繰り返し見たあと、昔聞いた誰かの言葉を思い出した。
「いまの家族は仮宿で、これから新しい自分の家族を作ればいい」
どんなにひどい家族の中にいても、それはあなたにとって永住の家ではない。いまはとりあえずそこに身を置いているだけで、時が来れば次の家を見つけられる。そういう意味だった。
僕はその言葉を信じて家族について一旦受け入れることにした。家族とは仮宿で、新しくまた自分の家族を作ればいい。
しかしそれは裏を返せば、いままでの家族を半分は否定しなければいけない。ここは自分の居場所ではない。頭のどこかでそう思い続けていなければいけない。
浅田さんのうつくしい家族の写真は、心の底にしまっていた仮宿の家族を思い出させた。その写真の中に写っている人のうちのひとりがもし僕だったらよかったのにと思った。
いまさら仮宿をどうにかしようというわけではない。なるべくそっとして、他人事のように、ましてやみんなで打ち合わせして1枚の写真を撮りたいわけでもない。
ただ僕は、自然とみんなで1枚の写真を撮りたいと思えるような家族がほしかったのだ。3世代以上にまたがって、あたたかい関係性を収める写真の一部に僕はなりたかった。
美術館は時々こうやって僕の古い傷を改めてもう一度開きにくる。でもそれは苦しいだけではなくて、なぜ僕がそれを嫌なのか見つめ直すきっかけになる。
こうやって傷を見つめ直すことで誰かの幸せを壊そうと思わなくて済むような気がする。きっとこれは浅田さんの写真を見る人の大多数の鑑賞の仕方とは異なると思う。でも、見てよかったと僕は思った。