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感想・映画『うみべの女の子』

 それは10年前の答え合わせの2時間だった。
 映画『うみべの女の子』を見てきた。



 原作、浅野いにお、監督、ウエダアツシ。最初に原作を読んだ時から随分時間が経っていた。

 初めて浅野いにおの漫画に触れたのは『素晴らしい世界』の完全版をたまたま本屋で手に取った時だった。巻数の多い漫画を読みたくなくて読み切りや短編集なんかをジャケ買いで買っていた時期があり、その中に『素晴らしい世界』があった。

 『素晴らしい世界』で「なんだか分からないがこの“浅野いにお“という人の描く漫画が面白い」と思い、『ひかりのまち』『虹ヶ原ホログラフ』『世界の終わりと夜明け前』『ソラニン』を読んだ。『おやすみプンプン』はそこそこ巻数が出ていたので手を出すのをやめた。

 それから少しして『うみべの女の子』が平積みで並んでいるのを本屋で見つけた。綺麗な表紙だったので気になって手に取ると浅野いにおの漫画で、内容もよく知らないまま買って読んだら見事に打ちのめされた。

 田舎の海に少なからず慣れ親しんできた僕にとってそれは他人事の物語ではなかった。漫画の中の見たことがあるような風景から物語へ親近感が湧いてしまった。

 単行本自体は全2巻で完結しているが、1巻目と2巻目の刊行の間におよそ2年の歳月がある。本屋で『うみべの女の子』の2巻を見つけた時、それこそ海辺で珍しい漂着物を見つけたような気分だった。

 初めて『うみべの女の子』を読み終えた時、なんとなく懐かしかった。それは新しい物語なのだけれど、最後に高校生になった小梅を見て懐かしくなった。

 それからしばらくして今日、映画『うみべの女の子』を見た。台風が近づいている影響で断続的に雨が降っていた。休日に雨かと思ったが『うみべの女の子』を見るにはちょうどいい日だと思った。

 冒頭、高校生の小梅を見た時、猛烈な懐かしさが込み上げてきた。あまりにも濃く凝縮された懐かしさにむせ返したくなるくらいで、それは本編が中学生時代に入ってからもしばらく続いた。

 原作に忠実というよりはむしろ原作を読んでいた時の感覚をそのまま流し込まれているような感じで、それは映画が原作に対してかなりのリスペクトがあるからには違いないのだが、小恥ずかしさと言ったら伝わるだろうか、10年前の自分の思想をそのまま大々的に見せられている気さえした。

 随分ねじ曲がったものを赤ちゃんみたいに素朴に見ていたんだなと思う。当時はそれがまっすぐに見えていたし、だから僕は『うみべの女の子』に親近感を持って接していたのだといまとなっては思う。映像として現れるそれは『うみべの女の子』だったし、長い年月を彷徨い続けている亡霊を見たようだった。

 青春の亡霊。そんなところかも知れない。はっぴいえんどの『風をあつめて』が嵐の中で流れ出すシーンなんかは最も恐ろしい瞬間で全く目が離せなくなった。元々あのシーンは漫画でも映画のワンシーンのような演出で、このシーンを見るために今日はこの映画を見にきたのかも知れなかった。

 映画の終盤、時間は小梅の高校生時代へと戻る。最後に小梅が「うみ!」と微笑む姿に漫画のラストシーンが重なって見えて、漫画の『うみべの女の子』を何年も昔に読み切った瞬間を思い出させられた。そして青春の亡霊がエンドロールの闇の中へと戻っていった。

 映画館を出ると台風が引っ張ってきた雨がまだ降り続いていて、映画の中に閉じ込められた気がした。車に乗り込み、雨が打ちつけるフロントガラスを見ながらはっぴいえんどの『風をあつめて』を流すと、もうこちらへ戻ってこれないのかも知れないと思ったが戻ってこれなくてもよかった。

 こうやって現実に戻ってきて感想を書いていると、物語は長い年月が経っても自分の中に残って呼吸をしているのだと改めて気づかされる。10年前の自分はまだ高校生で、『うみべの女の子』がどんな風に呼吸をして自分の中で息づいていくかなんて想像もしていなかった。

 原作の発刊から経った年月でいえば小梅や磯辺たちは僕と同年代になっているのだと、なんとなくその姿を想像してみるが想像すればするほど小梅や磯辺は僕から遠ざかっていった。もうあの海辺にはいなかった。


 田舎の海辺は、真夏以外は賑わうこともなくて、落ちているのはゴミか貝殻か石ころぐらいなのに、なぜか不意にぼんやりと眺めに行きたくなる場所です。




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