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拝啓ご無沙汰してますが僕はますます元気です

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あの金城哲夫さんのご実家である松風苑。その、哲夫さんの仕事部屋をヨーリーやサリーさんと訪ねた日のことは昨日のことのように憶えております。

金城哲夫さんが晩年を過ごした部屋の階段が無くなってしまった、という話を聞き、驚きと寂しさを覚えました。あの部屋、あの蔵書に囲まれた空間の佇まいもまたなんとも言えない雰囲気がありましたが、あの部屋へと続くあの急階段こそが、故郷でやるせない立場で鬱屈としていた彼の晩年を思わせる遺物ではなかったか、と考えさせられます。

金城哲夫さんが晩年を過ごした書斎と、そこに至る階段。この階段が金城哲夫さんの最期の場所となった

失われる前のあの階段を見ることができた我々は、取り壊される前の絶妙なタイミングで見ることができたわけで、そういう意味では幸福な体験をしたとも言えます。では、それを見ることが出来ない後世の人間たちが不幸なのか?というと、俺はあまりそう考えたくはありません。


話は変わりますが、四年ほど前に東京に遊びに行った時、ヨーリーにアテンドしてもらって高野長英の史跡を巡った事を思い出しました。サリーさんもちょうど麹町付近の宿に泊まっていたから、サリーさんを迎えて貝坂にある長英が初めて江戸に構えた蘭学塾の跡地を訪ねました。
ビルばかりの街中に、黒いプレートがはめ込まれ、そこに長英がその伝説的な活動を始める一歩となった「大観堂」が建っていたことが記されていました。俺は興奮し、震えていたのを今でも憶えています。
ビルに囲まれアスファルトで舗装されたこの場所に、百五十年以上前、シーボルト門下一の天才として立身の野望に心躍らせていた若き長英が、自分の拠点を構えていた。そのことを想像すると、周囲の景色がまるで違ったものに見えました。

大観堂時代、長英は医者として優秀でしたが天才にありがちな処世術の下手さというか営業下手というか客に媚びないというか、つまりは診たてはいいけど愛想の良くない診療をしたため、あまり繁盛することはなかったそうです。しかし、江戸で長英以上の医者はいないため、他の医者が治せない患者を代診して治療し、高額な代診料を請求する、というブラックジャック顔負けの悪辣なやり口で糊口をしのいでいたそうです。たとえ高額であれ、長英には代診依頼が絶えなかったといいます。

そうしたことを考えながら見た麹町の風景は、ビルだらけでありながらも、俺には長英のいた面影を感じることのできる場所でした。いつまでもそこに居たい。そんな思いでいっぱいでした。

シーボルト門下生として華々しく江戸で開業した長英は、名医としてだけでなく、西洋研究を行い幅広い交流を行った。天保の奇跡“尚歯会”を結成。その中には世界遺産となった韮山反射炉を作る江川英龍もいた。というか、江川英龍が長英の入牢時に様々な援助をし、逃亡の援助者にもなる。


次に連れて行ってもらった港区青山の長英終焉の地もまた、巨大なビルの一角にポツンと石碑が置かれていました。車を停めてもらい、結婚式の二次会らしき人々の一群をかきわけ、石碑を見つけた時の感動を俺は忘れません。人混みの中で誰からも見向きもされず、そこに長英の石碑はありました。

ここで長英は捕縛され、六年の逃亡の恨みを晴らすかのように幕吏に暴行を受け殺害される。報告書には刀を奪い自害したと記録されたが、実質なぶり殺しにされた


無実の罪で投獄されながらも伝馬町で牢名主になった長英は、牢の雑役夫に依頼し、火事を起こさせ脱獄します。今でも放火は重罪ですが、木造建築しか無かった江戸時代では区画一帯を焼失させかねない無差別テロです。確実に死罪となります。そんな罪を犯してまでも長英の脱獄に協力する人物がいたのです。(余談ですが、江戸時代の脱獄は密告者の罪が減刑になることからほぼ計画段階で密告され、火事の際の“囚人切り離し”以外での脱獄は皆無だったそうです)

その後、長英は牢破りという法の秩序の破壊者として追われる身となり日本中を逃げ回ります。東北一帯から四国、九州と本州をほぼ縦断するかのような逃走旅行を続けます。そして逃走中に資金稼ぎのため、当時ヨーロッパの主流であった「三兵戦術」の解説書を日本語に翻訳し「三兵答古知機」と名付けます。これが日本初の西洋兵書の翻訳であり、これ以降、幕末の長州に村田蔵六が出現するまで、誰も西洋の兵書を翻訳することが出来ませんでした。この兵書が唯一の西洋式兵士の運用方法として、幕末の日本で広く用いられます。

長英は逃亡先の宇和島では日本初の西洋式砲台まで建造したりするのですが、そんな偉業の数々を知る人はほとんどいません。東京に住む多くの人たちにとって、長英の足跡は路傍の石であり、巨大なビルの影に佇むちっぽけなオブジェなのです。しかし、長英という人物を知る人間にとっては、跡形もなくなった路傍の石でさえ、足跡の痕跡が宿る貴重な証言者であり、その偉業を改めて教えてくれるのです。


ヨーリーは死後に自分の痕跡を風化させたい、というようなことを書いていたけど、あれは実に的を射ていると思っております。大切な遺物であれ、それが現代において重要ではないと判断すれば人は容赦なくそれを捨てて消し去っていく。景観はどんどん変わり、かつてそこに暮らした人たちが目にしたであろう風景は、まるで風葬されたかのように消し去られていく。それが人の世の営みなのです。

とはいえ、どんなに景色が変わろうとも、故人の成し遂げた業績が消えるわけではなく、それを語り継ぐ人がいる限り、その業績を知る人間が故人を偲んでその足跡を訪ねることが無くなるとは思えません。そこで目にした風景が故人の生きた時代と違っていたとしても、何がしかの感動と感銘を与えることは間違いないのです。それを、俺は四年前の高野長英の足跡を散策する事で理解いたしました。

長英の足跡を訪ねる途中、愛宕神社に立ち寄り、皆でお参りをしたことを思い出しました。愛宕神社の石段といえば、あなたが昔ナレーションをした向田邦子ドラマの「響子」で、小林薫が「上海だより」の一節を唄いながら、あの石段に刻まれた石工たちの鑿の痕跡について語った場面が印象的でした。
しかし、今や鑿で石を削る石工など絶滅危惧種で、愛宕神社の石段も修復が必要になれば機械的に大量加工された石段になるのかもしれません。

そういう風に考えると、今目にしている全ての景色、全ての造形物がいずれは新しいものにとって変わられ、姿を消してしまう可能性は大いにあるわけで、そういう意味で釈迦の唱えた「生あるものは死に形あるものは壊れる」は圧倒的な真理として受容するしかないのであります。
と、まぁ、とりとめのない話になってしまいましたが、要は無くなってしまわないうちに大事なものは見ておかなければいけないし、死んでしまわないうちに会いたい人には会っておかねばいけない、ということなのではないか、と解釈いたしました。


余談ばかりになりますが、高野長英が伊予宇和島で潜伏し、後にシーボルトの娘イネも暮らすこととなった宇和島藩医の二宮敬作の屋敷は現在も保存されているので、いずれ彼の地を訪問しようと企んでいる今日この頃であります。太平洋の彼方からご多幸と健康をお祈りしております。
                                                                            敬具


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