聴くこととしてのエッセイ
T
話の聴き方って、習わないですもんね。
石躍
そうですね。
月白
俺が聴くことを意識しはじめたのは、『聴くことの力』を読んでからだと思う。
T
そういえば、僕もそうですね。
石躍
へぇ、二人とも。
T
あれって、聴くこととしての哲学なんですよね。
石躍
聴くことの哲学じゃなくて。
T
そうそう。
石躍
「哲学はこれまで喋り過ぎた…」ってね。そういえば僕の今回の連載も、それかもしれないです。聞こえてきたものを書いている。
瀀
そういえば、前回の踊りについての文章でも、踊りをやっていて、お菓子もつくっている人との会話が、ここで出てくるんだって、いいなって思いました。
石躍
あれも締切の翌日に聞こえてきたものですからね。あれがなかったら、書けなかった。ハマスさんとの会話があったのも、締切を三日過ぎてからだったので。藁をも掴む思いで。その藁でしたね。
——と、連載「すべてのひとに庭がひつよう」の最新回が公開になってから二日経っての、今夜の月白での会話を振り返りながら、聴くこととしての哲学、ということがあらためて面白く感じられた。
庭についての連載だから庭について書くというのでは必ずしもなく、庭があるから聞こえてきたものを書いている。つまり自分がやっていることは、聴くこととしてのエッセイ——そういう試みなのではないか。庭があると、これだけ会話が面白くなる。会話だけではない。読書も、はたまた日常茶飯のありとあらゆることが、庭があることによってこそ、より面白くなる。つまり、より生きられる。「すべてのひとに庭がひつよう」と、だから言えるのではないか。
そうしたわけで、あらためて。公開から二日が経ちましたが、二十四節気 冬至につき、「すべてのひとに庭がひつよう」第9回の更新です。
題して——イッテで、ゴドーを待ちながら
表向きは、薬院大通に今月オープンしたカフェ「it()te 」(イッテ)の作庭記でありながら、そこから思いがけず演劇論へ、そうして演劇史にその名を刻むベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』論へと、話は続いていきます。
ハマスさんとは、it()teの内装を手がけた大工であり、18,000字あるうちの——今回は長かったね〜とみんなに言われる——10,000字ほどは彼との会話——長かったけど、抜群に面白かったと言われる所以——になっています。
思うに、大工と庭師は隣接している——建築と庭が、物理的にそうであるように。そうした、似ている所が多分にありつつも同じではない大工との会話によって、庭師の庭師たる性が次第にあらわとなっていく。それはまるで極上の整体を受けているような気分だった。
そうして、当初はカフェの作庭記を書くつもりでいた筈が、庭をつくるという行為については、さして語ることもないように思われた。むしろ庭は、つくっている最中よりも、つくり終えたあとの時間のほうが、肝心に思われた。おそらくは、それが建築と庭との最大の違いではないだろうか。建築には竣工があり、明らかな完成があるのに対して、庭には完成がない。
庭とはだから、待つことなのだと思った。けれど、何を待っているというのか。またどのように待てばいいのだろうか——完成がないのなら。そこで待つことが気になって、『ゴドーを待ちながら』を読んでみたら、やっぱりこれは庭の話だった。
お仕舞いに
初秋から二十四節気毎に更新してきた「すべてのひとに庭がひつよう」も、今年はこれで書き納め。次回は一拍置いて、大寒(1月20日頃)にまた更新予定です。懇意の読者には長すぎと笑われた今回ですが、我ながら傑作と存じますので、年末年始にでも読んでくだされば幸いです。
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連載
すべてのひとに庭がひつよう
第9回 イッテで、ゴドーを待ちながら