『食べたくなる本』を読むべき

突然ですが三浦哲哉さんの『食べたくなる本』は最高なので今すぐ皆さん読んでください。

集中的に批評に取り組んでいた頃、とにかく聴覚と文章の食べ合わせの悪さを繰り返し痛感した。この文章が読まれたとしても聴く態度が変わることはほとんどないのではないか……と思わされることが多かった。客観性が担保しにくい領域だから。というか、視覚以外を相手取ってなにかを書く、ということはほんとうに難しい。特に味覚が一番難しいのではと思う。味覚ほど選り好みが幅を利かせる領域もないだろうから。

だから、三浦さんの『食べたくなる本』は本当に読書が楽しくて、驚かされることの連続だった。取り上げる題材や三浦さん自身の書き振りの柔らかさもさることながら、一番感心したのは味覚を相手に叙述を試みて、しかも一定の成功を収めるという仕事ぶりにあった(高山なおみとケンタロウとサンドイッチの章が個人的に印象深かったです)。

ちなみに「ナポリタンの理念とサスペンス」という三浦さんの料理本批評のポテンシャルを伺わせるテクストがあって、これは批評再生塾第1期の出題者だった三浦さん自身による解答例という文脈をもってる。そのお題が「サスペンスフルな批評」というもので、叙述の流れに注意を向けさせるものだった。それも知っていたので、なおさら三浦さんの選ぶ言葉に注意が向くのだった。

三浦さんはときどき重要と思われるポイントを語感に込める。成田空港でのビールの「ぷはーっ」もそうだし、「マルフーガッッ」なんて特に。肝心なポイントにだけこういう音の表現があらわれるので、読んでいると意表をつかれるようで面白い。だけど思わず口にしたくなるこうした語感は、もしかしたら味覚とは別のしかたで口に働きかけているのかもしれない、と後になって気が付いた。

批評のプロジェクトのひとつとして「外部」や「他者」を招き入れるということがあるならば、『食べたくなる本』はその主戦場が口腔ということになる。苦手な食べ物は口にすらしない、という頑固さをも持ち合わせる味覚の領域で、批評をあえて試みるのは本当に難しい。だけどなるほど、語感をこういうふうに持ち出すことで、多角的に口にアプローチできるものなのかもしれない。そして実際に、面白い効果を生んでいる。

……などということを今になって思ったのは今日が新元号発表の日だったからで(!)。実際書類でうんざりするほど「令和」と書くようになるのは5月以降で、いまは文字よりも発音と向き合うほうが長いという、貴重な期間なのだ。昨日までは想像もつかなかったこの発音を、これから長く受け入れていくのか……と思いながら「れいわ」と口にすると、なんだか変な感じがして面白い。生まれた甥っ子の名前を呼ぶような感じでもあり。誰にとっても外から突然やってきた「れいわ」を迎え入れるときの色々な驚きや抵抗感は、三浦さんが『食べたくなる本』で「おいしい」の表現のもとに擁護しようとしているさまざまな味や食感との出会いと、無関係ではないのかもしれない。

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