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自動生成についてのメモランダム──2016.10.22 小宮知久「泳ぎつづけなければならない」@TWS本郷

< I >

 コンピューターによる音楽制作は、2つの軸からなる4項に大別することができる──リアルタイム/非リアルタイムと、音響合成/作曲支援、という対。統合開発環境「Max/MSP」はリアルタイムの音響合成に該当し、そのほか各種DAWは非リアルタイムの音響合成、「OpenMusic」など作曲支援ソフトは、非リアルタイムの作曲支援、といった具合になる。ここに、唯一空白地帯だったリアルタイムの作曲支援の区分を補うものとして、近年Maxの拡張ライブラリ「Bach」が登場した。これはOpenMusicをMaxの環境下で動作させることが主目的となっており、結果としてOpenMusicのベースにMaxのリアルタイム性が合わさったような設計がされている。また、OpenMusicは五線譜ベースのソフトなので、Bachでも同じように五線譜上でさまざまな操作ができるよう、多様なオブジェクトが用意されている。
 リアルタイムで作曲支援が可能になったとなると、そこから楽譜を自動生成させるというアイディアまではあと一歩のところまで近づく。小宮知久が本公演で上演した《─Vox Autopoiesis─》シリーズは、このBachをつかって楽譜を自動生成させ、それを最大3人の演奏者か、あるいはソフト音源に歌わせる作品だ。その場で歌われるべき楽譜ができていく、というコンセプトは一見奇妙に見えるが、ソフトウェア開発の側に視点を転ずれば、真正面からのアプローチだということがわかる。

 ざざっと公演をおさらいする。すでに公演を聴いた読者はここを読み飛ばしてこの章の終わりに進んでもらって構わない。
 《─Vox Autopoiesis─》シリーズは自動生成システムと演奏者が密接に関係して上演される。まず歌われるべき楽譜が表示される。ここには特定の1つのピッチが示され、五線譜上に表示される再生バーにそって、演奏者はそのピッチを歌う。このピッチは作品上の基準にあたる機能を示していて、演奏者ごとにピッチが指定されている(だいたい音域の中央やや下に置かれる。)ただ音を伸ばして歌うあいだに、演奏者のピッチは揺れたりして、正しい音程から外れる。それをエラーとして数え上げ、自動生成システムに感知させて、つづきの楽譜を生成するためのパラメータに転化させる。出来上がった楽譜は跳躍をたくさん含んだ複雑なものに変わり、それをやはり演奏者が歌うのだが、頻繁にピッチが移り変わるので、演奏者は電気ショックを受けたかのような振る舞いをみせる。その間にもシステムは演奏者のエラーを拾って、次なる自動生成プロセスを発動させていく。またさらにノイズが加わり、エラーの程度や生成結果によって過剰なノイズがここにかぶさっていく──およそこういった仕掛けになっている。
 《 I 》はソロ、《 II -double- 》は二人で歌う(二人は異なる基準ピッチをもちながら、おなじような生成結果の楽譜を歌うので、終始並行移動をする。)《 III 》はGhostという副題をもつ。ソフト音源による無人演奏。ソフト音源は正確無比にピッチを歌う一方で、音程の移り変わるところでピッチが連続的に変化するので、システムはそこで一気にエラーを拾い、人間とは異なる結果を生成する。これは興味深い。《 IV -double + telecom- 》は3人で歌うが、一人は別室にいてSkypeにて参戦する。小宮はここで、メディアの距離-速度的な性質を作品コンセプトに交差させ、批評的なアプローチをとった。Skype上の演奏者は、とはいえ生成された楽譜を歌う人間のチームに属しており、仮象としての特殊な状況を活かしきれていない印象もうける。ディスプレイに存在するという強み──空間性はメディアのもう一つの性質である──があるのだから、Skype上の演奏者がスピーカー上の空間にも存在できたはずで、たとえばそこでは、生身の人間とはべつのしかたでノイズと絡むことができただろう。もっともそれはSkypeを介さなくても仮構することが可能であり、その意味ではトピックが詰め込まれている感も否めなかった。

*****

 しかしながら、楽譜が自動生成される、という事態からはさまざまな問題系を引き出すことができる。五線譜という制度とその歴史がいかに人間=演奏者を規定しているか。歌唱と書かれたものとの関係性。またもっと広く人間とメディアとの関わりについて云々と、この演奏会から多くの議論をはじめることができよう。しかしここでは、べつの観点から指摘をしておきたい。一言で言えばそれは、自動生成システムがなにを生成しなかったのか?である。

< II >

 「─Vox Autopoiesis─とは従来的な意味での「作曲された」楽曲ではなく、システムや装置に近いものなのだろう。演奏者は自らの声によって自己拘束し続けるサディスティックなシステム──装置を成立させてしまい、強制的に身を置かされることとなる。」[…中略…]「しかしこのシステムは演奏者を一方的な暴力に晒すものではなく、彼らの身体と楽譜の協調関係において生じるものである。ここにおいて記譜と身体の関係性は再考させられ、身体はこのシステムをどうにか泳ぎこなそうと自らの使用を変化させる。」(プログラムノートより、作曲者本人による)

 小宮によれば、この作品を成立させているのは演奏者とシステムの協調関係である一方、システムはサディスティックであるという。しかしぼくは逆のことを思った。つまり、この作品はマゾヒズムで駆動している。
 ドゥルーズの整理では、サディズムは否定にもとづく破壊的な所作をいう。サディストにおける加虐は、否定の行き届いていないこの世界に対する異議申し立てに相当する。ここでサディストが求めているのは、純粋な否定──この世界(あるいは法)の理念や本質に鋭く到達することである。一方マゾヒズムは、否定ではなく「否認」をする。暴力をすんなり暴力とは認めない。マゾヒストは自らに与えられた暴力をねじまげて、宙づりにさせ、とりあえず快楽にしてしまう。世界に矛盾があったとして、その矛盾に虐げられながら、それでもなお、半分笑みを浮かべつつ戯れていく。このねじれた肯定がマゾである。

 《─Vox Autopoiesis─》は、いわば2つのマゾヒズムによる交流の様相を示している。第一に演奏者。楽譜に示された極端に複雑化された音符の連なりを、演奏者は歌うことを通じて応答していく。彼(女)らはアルゴリズムがはじきだした自らの「エラーだったもの」に、休みなく対峙しつづけなければならない。あなたは先ほどあのように歌った。それは今この楽譜に成就したのだ──演奏者が示しているのはひとつの適応の様態である。

 そして第二にはシステム(アルゴリズム)がある。コンピューターが演奏者の声からエラーを検知・収集し、それに基づいて楽譜を生成していく。ところで作曲者によると、このエラーは、正しい音高から外れて歌うなどといった演奏者のミスだけでなく、演奏者自身の声の特徴(倍音の性質)なども含めているという。言い換えれば、演奏者が歌うことの意志によるミス(ソフトによるミス)と、この楽譜を歌うのがこの演奏者である、という選択それ自体が抱えてしまったミス(ハードによるミス)と、その両方をエラーと見なしているわけだ。
 このエラーの捉え方はかなり広いもので、整理不足の感もぬぐえない。後述するように、ぼくはハードによるミスを拾っていくプロセスは、エラーにとって混乱をきたすものだと思っている。なぜならばエラーとは誤りであり、誤りが生じる条件は厳しく制限されなければならないからだ。エラーの起こる範囲を開放すると、さまざまなレベルの、さまざまな修正可能性を抱えた誤りを同時に生起させてしまい、かえってエラーをエラーとして知覚できる限界を超えてしまう。ともあれ、この広域的なエラーの捉え方は、逆に言えば、演奏者から無尽蔵にこぼれ落ちてくる特徴をできるだけ自動生成のプロセスにフィードバックさせようという、システム側の適応によって成り立っている、と言うこともできるだろう。

 小宮が協調原理と呼んでいるものは、2つの異なる適応、異なるマゾヒズムと置き換えられる。演奏者とシステムの双方が互いに暴力的な楽譜/エラーの伝達をし、また互いに楽譜/エラーを通じて、自らに浴びせられている暴力を認知する。しかし与えられる暴力に対しては、歌うこと/自動生成することを通じて応答=肯定していく。《─Vox Autopoiesis─》シリーズに共通しているのは、このマゾヒズムの交流を通じて、音楽的時間を生成している、ということだ。
 しかし、マゾヒズムどうしが交流することは厄介である。おたがいが否認を発動する状況は、エラーの誤りというそもそもの性質を覆い隠してしまいやすい。双方が過剰な要求に対して適応するばかりで拒むことがないので、つねにコミュニケーションは巡り続ける。音楽的時間はつねに生成され続ける。ところがその終わりについては、外部から差し込むことでしか果たすことができない。ここに、作曲者本人が語っていた問題が重なる。すなわち、時間構成の問題。泳ぎつづけなければならない、の反対は、泳ぐのをやめてはいけない(禁止)ではなく、泳ぐのを「やめることができない」(不可能)。ここでは、エラーというエラーが適応されゆくこと=フィードバックされ生成のプロセスに投入されること、つまり将来的に成功することが約束されている。コミュニケーションを断ち切ってしまうようなエラーは、あらかじめ脱臼されることが運命付けられている。

 では、そのような音楽的時間において、失敗とはどのようにありうるだろうか?

< III >

 自動生成システムにおける失敗の問題は、今ますますアクチュアルに問われている。将棋の電王戦では、投了の判断においてこの問題が顕在化した。ぼくは将棋については素人なので、詳細は他にゆずることにするが、ひとことでいえば、コンピュータの負けが確定してからの棋譜は、プロ棋士からみるとまったく美しくないものだった。
 人間の棋士は、ゲームが終盤にはいったことがわかると、最後の最後までゲームを進めようとはせずに、その手前で投了を宣言する。このゲームの勝敗が明らかとなって、投了図がどのような流れをとるのかの解釈が、対戦しているお互いの間でだいたい一致するために、こうした判断が成立する。ところがコンピュータは、あきらかに人間が勝ったようにみえても投了することをしない。次に指せる手がひとつでもある限り、たとえその評価が芳しくなくともゲームを続ける。
 コンピュータにとっての投了は、ゲーム内の論理だけで導かれる。次の手がなくなるところで、コンピュータははじめて敗北を宣言する。人間ももちろんゲーム内の論理に沿うのだが、人間の場合はそこにもうひとつ、ゲームの周縁の論理、つまり「この局面はどちらが優勢なのか、どういう手が有効なのか」という大局観がセットになって判断する。これはいわば、失敗を予測して修正するための価値判断である。言い換えれば人間は、つねに複数の判断経路を抱えてゲームをしている、ということである。

 失敗を予期したり、失敗を認めたりすることは、成功判断ほど単純にはいかない。一見失敗しているようにみえるものも、解釈によっては成功に転じることがある。あるいはその場の判断を回避する方法として、いまは成功に向かっている大きなプロセスの途中段階にすぎない、と思いなすことできるだろう。失敗とは主体がそのときに進んでいるプロセスを否定する判断をいう。失敗の判断とは、まだ見ぬ成功が自らの歩むプロセスの先にはないことを断言してしまうことだ。だから、たとえマゾヒズムがいまの不利な局面をそれなりに適応してみせても、それだけではやはり足りないのである。真にマゾヒズムを機能させるには、いつくかのプロセスが選択できる環境を視野に入れなければならない。そのためにはサディズムが欠かせない。

 比喩的にいってみれば、失敗を認めるということは、不健康を認めることに似ている。大きな怪我をするとか、風邪をひくとか、腫瘍を抱えるとかいったものが、失敗にあたる。これはこれでなんとかやれる、と肯定に転じるのがマゾヒズムなら、いやしかし、このままでは健康な活動はできない、そもそも疾患を抱えているのだから治癒しなければ!と判断するのがサディズムだ。まずはおのれの不調を認めて、そのつぎに、なんとか不健康な現状をやっていきつつ治癒を行うわけである。そこでようやくマゾヒズムも必要になってくる。自動生成システムは、不健康がどのようなものかをしらない。たんなる自動生成システムは、ひたすら健康であるか、それとも頓死するかしかない。おのれの死について、それを回避したり予防したりすることができないのである。これをグレーゾーンの不在、と表現することもできるだろう。自動生成システムが自己治癒能力を獲得するためには、サドとマゾ──失敗の宣言とその適応、の両方が必要になってくる。

< IV >

 そろそろスクロールバーを繰るのもダルくなってきたことだろう。無限に紙幅を費やすわけにもいかないので、詳細な議論には立ち入らず、ここでは作中からヒントを抽出することで、とりあえず結びとしたい。

 《─Vox Autopoiesis─》の大きな特徴として、五線を大きくはみ出た極端に高い音符と、それを演奏者が強引に歌ってみせる部分を挙げることができる。女声で歌うとこの部分は金切り声になり、人間が人間性を離れて別のなにかに変化していくかのような強烈な印象を与える。ところで、この加線だらけの特徴的な超高音について、作曲者本人いわく、なんで生成されるのかがあまりよくわかっていないらしい。ぼくはここにこそ、システムが振るったサディズムの痕跡をみている。この超高音は、システムによるコミュニケーションの否定の宣言なのである。否定されながらなおもコミュニケーションが巡るのは、今回の場合、演奏者がかなり適応的に歌唱していたからだといえるだろう(特に初演などに関わった根本さんは、生成結果があまり複雑さを帯びてないとみるや、ビブラートを調整してシステムにエラーを起こそうと、かなり積極的にはたらきかけていたという。)
 そもそも五線譜にとって加線の数が多いことはあまり好ましくない。仮にそれでも読める、という主張があったとしても、すんなり読めているのではなく、ひねって解釈されているはずだ(たとえば、本数と音程の対応関係を厳しく記憶するなど)。同様に、この超高音が生成されることをポジティヴに「生成」ととらえるのは、やはりひねられた解釈なのだと思う。むしろネガティヴに、これをシステム自体のエラーとして捉えてみると、エラーの領域が整理されていく印象を受ける。少なくとも聴衆の知覚上では、エラーとそうでないものに先ほどに線を引くことが可能だ。前章のなかで、エラーの発生条件を厳しく制限するべきだと主張したのは、この意味においてである。否定と適応、サディズムとマゾヒズムの問題が前景化してくる以上、そのトリガーであるエラーの条件に複雑な解釈が走っていると苦しい。手近なところでは、ハードによるエラー──演奏者という環境をエラーに含めることは、これに該当する。

 比喩につなげれば、超高音はシステムの抱える腫瘍のようなものである。腫瘍であるからには、これを治癒しなければならない。でなければシステムも演奏者も、もろとも破滅してしまう。ここまでぼくが生命のメタファーを多用していたことからも明らかなように、ぼくはこのコミュニケーションの様態を、独立した2つのダイアログ(他者の出会い)としてよりもむしろ、大きな1つの統一体に走る、2つの異なる系統のように見なしている。たとえば、消化系と循環系、脳と胃袋のような関係。協調原理が発動するのは、大きな1つの統一体が自己保存の目的を持っているからだ。両者が動くことだけが、おのれを破滅から逃れる唯一のすべである。そしてこの前提から、生成すること(泳ぎつづけること!)の積極的な欲望が生まれてくる。ベタなメタファーだろうか。しかし、システムが死を察知するようになったとき、わたしたちは有限性についての思考を一段高いステージに上げることができる。

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