知るということ【12月20日】
エッセイストのように生きる
最近、「エッセイストのように生きる」という本を読みました。
とっても素敵な本でした。内容を少しだけ。
そもそもエッセイとは何か。作者の松浦弥太郎さんはこんな解釈をしています。
そしてここにもう一つ要素を加えて、弥太郎さんは説明をしています。
素敵な解釈です。そして、エッセイとは何か。そう考える工程、自分の中の問いに向き合うことこそ、"エッセイストのように生きる"ということなのだと僕は解釈をしています。
詳しくはぜひ著書を読んでください。
ここに書きすぎてしまうのはあまりに勿体無いくらい出会えてよかった著書の一つです。
僕にエッセイを書ける自信はありません。
なので、エッセイと文章の狭間のようなそんな文章に挑戦したいと思います。形式はいつもの文章。でも思考や大切にしたいことはできる限り、エッセイを書くときと同じもの。そうやって出来上がるものがなんなのかは、もはやわからないけど、書いてみようと思います。
僕は特に人との関わりの中で何かを感じることが多いと思っています。だから、毎回"あなた"に届けばいいなという想いで書いてみようと思います。
名前は出しませんが、明確に届けたいあなたがいるから書いています。
届けばいいな、そんな願いを込めて書きます。
涙を流してくれたあなたへ : 「知るということ」
最近、"知る"ってどういうことなんだろうと考えていました。
考えてみると、知るという言葉をよく使うけど、なんかしっくりこない時もあるなと思っていました。
google辞書によると、こういうことみたいです。
物事の存在・発生などを確かにそうだと認める、認識する。認めるということは当然その存在・発生が必要です。
知るというと知識という言葉を僕は連想します。
だから、知るということの存在・発生として真っ先に連想するのは、知識だと僕は思っています。でも、知識という存在・発生を認める/認識するとはどんな状態なんでしょうか。
そう考えると、今度は認識とは何かが気になってきました笑。
googleさんいつも本当にありがとうございます笑。
ここで不思議なことに気がつきます。知るためには、認識する/認めることが必要なのに、認識する/認めるためには、知ることが必要なんです。
だから、知ると認識はセットであると考えることができます。
知るだけでは、知るは成り立たないし、認識するだけでは認識するは成り立たないんです。
となると、認識するのその後の文章「その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。」というのが大切な気がしてきます。
その本質や意義などを理解すること。
知識という存在・発生の本質や意義を理解することは確かにできるかもしれません。
でもこの対象を"人"に置き換えてみるとどうでしょうか。
人を"知る"。もっというと、あなたを"知る"。
これは相当難しいことなような気がしてきます。僕が思っていた違和感、それは「あなたを知った気になっている」という違和感でした。
あなたの本質や意義を理解するということが僕は本当にできていたのだろうか、そういう違和感が僕の中にはあったんです。
もちろん、あなたの本質や意義を全て理解するというのは無理な話だと思います。あなたが持つ考えや感覚を、全て読み取れたらそれこそ超能力です。
全てを理解することはできない。
そういう前提に立ってなお、あなたのことを理解したい。
そうやって歩み寄る姿勢こそ、「知るということ」なんだろうと思います。
僕はあなたにそれをしたいと思っています。
歩み寄る姿勢をちゃんと見せる。理解したいを伝える。理解できている?を確認する。まだまだ未熟な人との向き合い方だと思うけど、自分の中で大切にしたいスタンスがまた一つ言葉になったような気がします。
あなたにとって、知るってどういうことですか?
あなたが大切にしたいスタンスはありますか?
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