「見ざる・聞かざる・言わざる」は罪
「見ざる・聞かざる・言わざる」きっと一度や二度は聞いたことがある言葉だと思います。見て見ぬ振りをする、聞いてない振りをする、そして、本当は言うべきことがあるのに言わない。そうすれば波風が立つこともなく、その場が乱れることなく、一見、穏やかな雰囲気が保てます。しかし、そうやって改善・改良すべきことを放置・放任することは本当の穏やかさなのでしょうか。「嵐の前の静けさ」嘘偽りによって形作られた穏やかさは大事件の前触れにすらなり得るのです。
仏教には「与同罪(よどうざい)」という教えがあり「見ざる・聞かざる・言わざる」は罪と教えます。たとえば、自分は一切悪いことをしていないけれど、目の前の人が悪いことをしているとします。その時、それを見て、聞いて知っているのに何一つ注意しない、一向にやめさせない、放置・放任する。それは、その悪い行いを容認してしまったことになり、自分もまた同じ罪を犯したことになります。自分が罪を犯さないだけではなく、目の前の人に罪を犯させない、これが仏教の「慈悲」なのです。
その根底には「あなたがいて私がいる、私がいてあなたがいる」という考え方があります。つまり「あなたはあなた、私は私、別々バラバラ」という個人主義の考え方とは全くの正反対です。よって、自分の幸せを考えた時に「あなた」という存在が必要不可欠だということであり、「あなたの幸せ」も考えながら、「あなた」と一緒に「自分の幸せ」を築き上げていく。だから「見ざる・聞かざる・言わざる」は罪であり、自分にとってマイナスでしかないのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?