変化と受容の先にあるもの
我々は変化したいと言いながらも同じことを繰り返し、新しいことを始めるのを躊躇する。いつものカフェに行き、同じものを注文する。なぜだろうか?答えはいくつかあるがいずれも納得できる。
変化を嫌うのは恒常性のためであり、これは生物の本質。毎日同じことが起こる前提で身体の中のシステムは機能している。一見変化していない状態、それでも全てものもは変化している。変わらないように見えるものさえ常に新陳代謝しているし、同じ状態を頑張って保っている。その状態が心地よく、それでいてうまく機能しているならば問題はない。厄介なのはそこから抜け出したい時で、変えたいのに変えられない時だ。朝早く起きて散歩する習慣をつけたい、タバコを辞めたい、毎日運動したい、学習習慣を身につけたい、などなど。
変化は新しい体験が連れてくる。知らない場所へ行き、今まで見たこともない景色を見たり、初めての体験をすると、身体と心はその状況に対応しようとしてフル稼働する。3週間前に初めてスペイン語圏へ行った時がまさにそんな状態だった。スペイン語は何も話せない。オラ〜もグラシアスも現地で教えてもらった。今まで行った外国で最も現地の言葉を知らない状態で訪れた。夜中に空港に着いて知り合いもいない。メキシコシティまでのフライトは快適だったけど、降り立った空港は異国の地そのものだった。出てこないスーツケースを待つ間、市内までのタクシーの乗り方を検索した。十分すぎる時間の後、タクシーカウンターへ移動して事前支払いのタクシーチケットを購入しタクシー乗り場へ移動した。日本のシステムとは全く違う。タクシー乗り場ではメキシコ人のビジネスマンがいて、話しかけてくる。3人連れの彼らは出張帰りなのだそう。英語が通じた。
私の番が来てタクシーに乗る。行き先の住所をスマホで見せる。コンデサ地区の小さなホテル。タクシーに乗って30分ほどの距離だ。雨が降っていたからタクシーで移動するのは最適解だし、スペイン語が話せないのにバスや地下鉄に乗って移動できるとも思えない。現地の言葉が多少話せたって交通システムを使いこなすのは難しい。昼間なら試してもいいし、それはそれで結構面白い経験になる。数年前に中国へいった時、多少は中国語が話せたので空港からバスに乗りホテルの近くで降りた。バス停からホテルまでの行き方がわからない。警官に聞いたらちょっとした距離だから原付に乗せてくれた。小さいスーツケースだったから移動も簡単で、西安の城壁の周りを風を切りながら移動するのは楽しい経験だった。チップを払ってホテルの100メートルくらい手前でおろしてもらった。
メキシコのタクシーで真夜中の街を移動した時、世界は日本から切り離されていて、同じ地球上とは思えないほど遠くへ来た気がした。外の世界は真っ暗で赤と青の暗い照明が雨の中ぼんやり光っていた。飛行機で16時間かかる1番遠い直行便だから遠くまで来たのは間違いない。ここからさらに南へ移動したら南アメリカの国々があり、そこまでいったらさらに異国感が増すに違いない。それでもこのスペイン語圏への玄関口へ初めて降り立ったこの日のことは忘れないだろう。入り口というのは記憶に残るものだ。初めてアメリカ合衆国へ行った日と同じくらいの衝撃があった。これと同じ体験はおそらくアフリカ大陸のどこかの国へ降り立った時に将来感じるに違いない。アジアを旅行している時には感じたことのない感覚だ。アジアの境界はインドの向こう側サウジアラビアのあたりとトルコのあたりにぼんやりと広がっている。ロシアはいったことないからわからない。東南アジアは異国だけど文化的に近い感覚があるし、オセアニアはアジアの向こうだな。アジアとオーストラリアの境界は海にある。南太平洋の島々へ行ったらどんな感覚がするのだろうか?ハワイやグアムはアメリカだが、ニューカレドニアへ行ったらフランスにきた感じがするだろうか?行ってみなければどんな感覚かはわからない。知らない国へ行くのが楽しみでもある。
新しい体験をしたり、何かを変化させた時に恐れているのはその変化によってもたらされた状況を受容しなければいけないと思っているからだ。気に入らなければ受け入れなくたっていいのだが、なんとなく起こったことを全て受け取らなければならないような錯覚してとらわれている。拒絶したってかまわないのだが、noというのが面倒くさかったり、波風をたてたくなかったりしてそのままやり過ごしてしまう。まるで自分が存在しないかのようにその快適でない状況を眺めて時間がすぎるのを待つ。それも悪くないが最適解ではない。