見出し画像

降参

私は混乱の中に生きている。
外側の私は、キラキラと輝いているけれど、
荒れ果てて寂しいボロボロの私が内側で途方に暮れている。
自分でも、よく生きていると思う。
オーラがオレンジ色の人間は「守る人」がいると強いのだそうだ。
けれども、「自分」のためだけには頑張れない。
だから、オレンジのオーラの人はあっけなく死んでしまうそうだ。
分かる。私には守るものがない。
私という人間を「もの」に例えたら、
レストランのショーケースにある
プラスチック製の食べ物のようだ。
見せかけで見本になっているヤツ。
本物じゃない。
そんな風に自分のことを特に思うときは、最近、学校の子供と接しているとき。
昔は、金八先生のように、熱かった。
いまは冷めきっている。
 
一緒に盛り上がれる、コネクトできるものがあれば、きっと同じような情熱は戻ってくるかもしれない。
けれども、私が子供から引き出せるものと、子供が引き出されたいものって
時代とともに変わってきているように思う。
そんな風に思うのは「接点」がみつからないから。
「教員」は一幕ここで閉じることにする。
 
金八先生時代の私は、ネグレクトの子供や、いじめられている子供のために燃えた。生徒たちと一団となって、町の祭りや学校の朝会なんかでダンス演技を披露して、一緒に盛り上がって、一緒に感動した。ノーザンテリトリー州の日本語スピーチコンテストで自分の生徒たちを5年連続で優勝させた。
社交ダンスもヨガも公立中学の教科に入れてもらって指導することができた。黄金時代だった。
私自身も変わってきた。態度の悪い生徒、親のしつけがなっていないやりたい放題の子供、乱暴な子供、そういう生徒を扱う気力と体力を、使い切った。
完全に。
生徒の中には本当に素晴らしい子供もいる。もっとそういう子供のいいところを伸ばしてあげれればよいのだけれど、教室内が崩壊していると、そういうことは不可能であると思う。学校側が協力的であれば良い。問題児を教室内から取り除いてくれたら(例えば、そういう子供を校長室で扱ってくれたら)平和的な環境も作れるのだろう。ケアンズに来て「校長」と言われる人は上品に紅茶を飲みながら、それはあなたの仕事でしょうと言って、断る。
そんな校長に私が言った言葉は、では、他の先生を見つけてください。先生の代わりはいるけれど、「私」の代わりはいません。自分が壊れる前に辞めます。
学校に対しての絶望感。学校は変わったけれど、同じ境遇が待っていた。親も変わってきている。
もう、降参というかあきらめである。
学校教師として、もう冷め切っている私は
教壇に立っていたら、悪いカルマを作ってしまうと思うのである。
私は素晴らしい親にいつも「素晴らしい親でいてくださってありがとう」と言ってしまう。自分の親でもない人に「ありがとう」と感謝の気持ちを込めて言ってしまう。上から目線なんてなくて、ただ、ひとりの人間として。

いいなと思ったら応援しよう!