『妻の心』高峰秀子生誕100年プロジェクト〜女だらけの夜〜
現代を生きる私にとって、このストーリーは好かん。
けれど、あの時代では男女問わずどちらも楽しめる作品だったのかもしれない。
高峰秀子生誕100年プロジェクト「女だらけの夜」のスペシャルイベントで鑑賞してきた。
今回の作品は成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の『妻の心』
上映後のトークショーで養女の斎藤明美さんが「この話、嫌い」とはっきり仰っていたけれど、私もとても共感した。
心動いた人がいるなら一歩踏み出せばいいじゃん!
いけ、いけ!と鑑賞中に何度も叫びそうになった。
経済的にも精神的にも自立し、自分の人生を自分で選び一歩ずつ踏み締めて歩いて来た女性にとって、これほどおかしな映画はないんじゃないかと思う。
私の鑑賞後の一番最初の感想は、
なぜこの映画が名作?
誰のための作品?誰が楽しめるの?
と思った。
アフタートークで斎藤さんが「映画を見るにあたってカタルシスを味わいたい」と仰っていた。
つまり、この映画ではカタルシスが感じられないと。
私も全くその通りだと思った。
私も見ているあいだ中、とてもイライラしていた。
出てくる登場人物全員、自主性がない。
自分で決められない。
自分で一歩が踏み出せない。
自分が傷つきたくない人たちばかりだ。
自分が悪者になりたくないから、ハッキリとNOと言えない。
自分に自信がないから外で女遊びをする。
その女遊びですら上手くできず、ドキマギしている。
そんなうだつの上がらない旦那と別れられない。
心動いた人がいても自分から告白できない。
今書き出しながら、改めてほんと救いようがない人たちばかりだとウンザリする。
そんな鑑賞中のモヤモヤを斎藤さんは上映後のトークショーでハッキリと一刀両断。
ストレートな物言いは一見キツく感じる人もいるかもしれないけど、私はいつも聞いていてスッキリしている。(まさにこれこそがカタルシス!)
帰り道、歩きながら今日のイベントでのことぐるぐると考えていた。
少しして、ふと思った。
実はあの作品は、当時の人たちにとってはカタルシスを誘う作品だったんじゃないかと。
1960年代、戦後。
まだまだ女性は結婚しなければ生きて行けない時代。
1990年代生まれの私にとって、その時代の結婚は一生をかけた就職のようだと思う。
好き嫌いではなくどの家に嫁ぐか、どの地位の人と一緒になるかで、その後の女の人生が大きく左右される。
つまり、女の能力は仕事や技術ではなく、いかに甲斐性のある男と結婚できるかが大きなバロメーターになっていたようだ。
うだつの上がらないどうしようもない男が心の中で求めている理想の妻像は、実はああ言う妻だったのかもしれない。
美人で器量もよく、家族のために仕事も一生懸命。
だけど自立しすぎず、姑に自分の意見をハッキリとも言わない。
ある程度の嫉妬はしてくれ、だけどすぐに離婚などと言い出さない程よい依存的な女。
おまけにイケメンからも好かれていて、そこそこ人気のある女。
それに対して自分は甲斐性もなく何もしてあげられない。
ある程度の家柄で、ある程度恵まれている。
ただ自分の実力の無さは自分が一番よく分かっている。
兄貴のように自由に振る舞う勇気もなく、近所の銀行員のようにイケメンでもなく、今ある薬局屋を繁盛させる商才もない。
家がらは悪くはないけど、自分には何もない感覚。
中身が空っぽの感覚。
実は心の中ではよくわかっている。
自分には勿体無い妻だと、自分が一番よくわかってる。
贅沢な暮らしをさせてあげられず、家族のうやむやにも巻き込み、自分もストレスを感じている。
そんな自分に妻が愛想を尽かす日が来るかもしれない。
妻に見捨てられるかもしれない。
そりゃ妻だってあのイケメン銀行員の方がいいと思っているに違いない。
きっとあのような気持ちの旦那、当時は多かったんじゃないかって思う。
自信のない自分だけれどそんな理想の妻像を、みんなのマドンナである高峰秀子が再現してくれたことで、男性は夢を見れたことだろう。
そして女は女で救われる作品でもあったんじゃなかろうか。
あの妻に共感する女の人が昔は多かったんだろうなと思う。
そして、どうしようもない自分の日々と映画のストーリーを重ね合わせて、頭の中では自分も高峰秀子みたいな健気な美人が描かれてる。
物語の結末は、元鞘で完結する。
あの結末は、現実を変えることの出来ない人々にとってとても救いのある結末だったんじゃないかと思う。
「やっぱりその道を選ぶよね」という共感もあれば「やっぱり今の自分の選択は間違ってなかった」と自分の人生を肯定することができる。
いろんな見方が出来るけど、当時我慢が美徳とされて、なかなか現実を変えづらかった時代の人々にとってはカタルシスを味わえる良作だったのかもしれない。
平成生まれの私にとってはただイライラするだけの映画だったけど、もしかすると当時の人たちにとっては必要な映画だったのかもしれない。