イメージの中の京都の町に遠慮をしていた
こんにちは。
京都に住んで18年。なんにも京都のことを語れませんでした。
おそらくそれは、大人になって(正確に言うと36歳で)移り住んだので
京都に対するイメージが出来上がっていて、イメージの方が正しく自分の感じている京都感は間違い、たいしたことない、ふつうすぎ・・というのが原因でした。
困ったものです。外からのイメージをまともに受け入れて、自分の体験をとても貧弱に感じていました。
昔、知人に京都に引っ越すことを話したとき、こんなことを言われました。
「京都は公家の血を引く人が多いから、気位の高い人が多いよ。しきたりも多いから大変ね。」
そして、その言葉を信じたまま、京都で長い時間を過ごしました。
18年住んだ結果なのですが、(おられるかもしれないけど)公家の血を引く人には出会いませんでした。気位の高い人にも出会いませんでした。しきたりも感じたことはありませんでした。
確かに、テレビなどで見る京都人像はありますが、私の実生活には現れませんでした。優しいか、人に深入りしない、適度な距離感をもって付き合ってくれる人ばかりでした。
いわゆる「京都のイメージ」とはかけ離れた、普通過ぎる生活をしています。なんも特徴がありません。
でも、うまく言語化できないけれど京都が大好きなんです。それは確かなのに、ここにいることが当たり前になりすぎて、具体的にどこが好きなのか言葉が出ません。
こんな根本的なことを書いているのは、昨日から記事を書いている
「わたしの京都英語」(仮タイトルをつけた本)のコアになる体験が足りてないのではないか?という思いになったからです。
いやいや、体験に足りないも多すぎるもありません。
特徴だてて、何か際立ったことを無理して書こうとしているから「書くことがない」になっているんです。
自分生活してきた京都と、観光資源として語られる京都は違って当然です。観光地の京都のイメージに、遠慮しなくていいと思います。
仮に私がどこか外国の小さな町に行ったとして、その時に聞きたいのは、めずらしいことではなく「その人がその街でどれだけ幸せに暮らしているか」その幸せの形を聞きたいと思うはずです。
ですので、幸せな京都体験(生活体験)から言葉が出てくればいいのかなと思います。
おとといから、本を書くのかな?という、主体性のない感覚を感じています。主体性がないとはいえ思考が動き出したので、そのまま書いてみました。
ここまでお読みいただきありがとうございました。