耳が最後
百歳近くで大往生した母方の祖母は、「おかあさん」とよばれるたびに、息を吹き返した。
いまわの際に、祖母の息と息の間隔は徐々に長くなっていった。
ついに息が止まったかと思われると、母と叔母が「おかあさん」とよんだ。すると、それに応答するかのように、祖母は「ハァー」と息を吹き返すのだった。
それは何度も繰り返された。ついに息を引き取るまで、彼女はよばれるたびに戻ってきた。
「人間、耳が最後やで」
通夜の席で、父はそう言うのだった。
往生際まで開いているのは目ではなく耳だというのは、説得力があった。
考えさせられたのは、往生際でもなお、人はよばれると応答することである。
これは必ずしも聴覚の優越を示すとは思われない。
祖母はもう、言葉の意味までは分かっていなかったと思う。
しかし、そばにいるのは娘たちで、なにかを自分によびかけている、そのことは感じられたのではないだろうか。
それは、身体と身体が近くにあるという引力のような感覚だっただろう。
おそらく、人をよぶために、必ずしも言葉や名前は必要ない。
身体と身体が近くにあるだけで、人は人によばれるのではないか。
そうした「よばれる」感じのなかで、祖母はなんとか応えようとした。
そのこと自体に打たれる一方で、切なさのようなものも感じた。
つまり、死にかけていても、人はよばれたら応えてしまうのである。
よばれたら応えてしまうことは、一方では愛情や憐みの表現となるだろうし、他方では他人によばれるかどうかが気になって、自分事に専心できない悩みにもなりうる。
最後まで耳は閉じられない。
応じるか応じないかは選べるとしても、よばれること自体を拒むのは難しい。
それは、生まれるのを拒めないことと似ている。
神式で行われた葬儀の場で、参列者は音を出さずに手を合わせる「しのびて」という儀礼をおこなった。
穢れの場にあやまって神をよんでしまわないようにそうするのだというが、よばれるたびに戻ってきた彼女に、ゆっくり休んでもらうためにも、静かにした方がよさそうだった。
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