シャッターを半分下ろす
調子が悪いとき、私は私を閉じてゆく。自己防衛するのである。シャッターを下ろすように。きょうは店じまいです、と。
昼食のあと、コーヒーを半分くらい飲んだところで、あ、きょうは調子が悪いんだと気づいた。となりの人のおしゃべりが遠い。日本語を受け取る力が弱くなっている。紗がかかっているようだ。会話の中身をよりわける前に、ただの音としてはたき落としている。
いま、意味を受け取るのはまずいのだ。とくに、噂話はよろしくない。こんなときに読める本は、ひどく抽象的な哲学書。作家の日記。ある種の詩。でもいまは、そのなかに逃げ込めるタイミングではない。平日の真昼間、私は会社におり、仕事は山積みだ。たいていの大人には保健室も図書室もない。
こんなとき、むしろ仕事がはかどることもあるから不思議だ。シャッターを下ろしたことで、メモリに空きができ、作業効率が上がるのだろうか。ただし、文章を書こうとすると、みょうに茫漠としたものができあがる。まるで、書くことを統御するための、補助ソフトが一部落ちているかのように。
むかし、開高健だったか、シャッター反応についての文章を読んだことがある。ベトナム戦争のころ、ふつうに会話していた現地の人が、突如とろんとした目つきになり、何を言っても反応しなくなることがあったという。ストレスに対する自己防衛反応だろうというが、いまの私も、似たような目つきをしているかもしれないと思う。
シャッターを半分下ろした状態で午後をやり過ごす。でも、きょう働いている人のうち、どれだけの人がシャッターを完全に上げているだろう。もしかすると、私たちは日常的にシャッター反応を運用しているのではないか。そうでなければ、とても正気でいられないような気がする。などと、調子の悪い日には考えてしまうのだった。
テーマ:陶
文字数:749