誰にも待たれていない状態
旅行から帰ってみると、いとこが長男を出産したという知らせが届いた。ふたりが電車とバスを乗り継いで、雪の積もった山あいの温泉宿でゆっくりしているあいだ、人ひとり生まれたのである。「おめでとう」とメッセージを送ったとき、ふたりはベッドでうつ伏せになり、ふくらはぎに貼った湿布が効果を示し始めるのを待っているところだった。
ときどき旅行へ出かけたが、計画を立てるのは決まって彼女だった。彼は方向音痴であるだけでなく、予定を決めることが苦手なので、提案を丸のみすることが多い。不思議なことに、他人が決めた予定に動かされること自体は、たいして嫌ではないのだった。
「今回の旅行はどうだった?」と彼女が聞いたので、旅程を頭から順番に思い出した。金曜日に仕事を終えて駅に向かった。電車に乗る前に、駅前で偶然見つけた銭湯でひとっ風呂浴びた。到着した夜はすぐ眠ったが、翌朝登った里山は誰もおらず静かだった。
彼女は色んな山の地図をもっていた。数年前から温泉に凝り始め、続いて登山に目覚めたのである。幼い頃体操を習っていてバランス感覚に優れ、脚も強かったので、登山はぴったりだったらしい。飛ぶような速度で下山するので、ときには別行動せざるを得ないほどだった。
彼は方向感覚がほぼ欠如しており、筋肉も瞬発力寄りだった。反射神経はジムのトレーナーが目を丸くするほど良かったが、持久力を高めることに全く興味がなかった。観戦するスポーツもボクシングやテニスなどの個人競技が主で、集団で持久力を発揮する駅伝などは、まるで異国の行事を見るような目で眺めているのだった。
運動としての登山は向いていなかったが、ひとりになれるのは気に入った。一時期などは、週末のたびに低山へ出かけてゆき、山頂でコーヒーを淹れてみたりした。とくに誰に待たれているわけでもないので、やりたいときにやり、やりたくないときはやらないことができる点がよかったにちがいない。勉強でも仕事でもそうだが、何者かに期待されている行為をすることが、どうしても性に合わないのである。誰にも待たれていない状態は、彼にとって宝だった。
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