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書けないまま書く

私は文章を書くことが好きだ。いまはエッセイのようなものを書きたい。もっと上手くなりたいと思う。面白いが何の役にも立たない文章を書いて暮らすことができれば愉快だ。

ところが、私は苦手なものが多すぎる。文章を書くにあたって致命的なものばかりだ。まず、記憶力がない。相当ないと思う。妻には「何なら覚えているの?」と言われる。固有名詞も忘れる。特に地名がダメだ。方向音痴なのである。登りと下りの電車を乗り間違えるし、自分が向いている方が北だと思っている。だから近道に成功したためしがない。

文章における地理感覚も欠けているから、構成が苦手だ。「これからどこに連れて行かれるのだろう」と、読んでいる人が不安になるようなところがある。前後の文がつながっていなかったり、脈絡のない言葉がフッと出てきたりする。つまり飛躍が多い。

これまで発表した文章のほとんどは、人に読んでもらって修正している。初稿の段階では、ビュンビュン飛躍しており、いきなり抽象的な話を始める。これではダメなので、いったん全部ボツにして書き直す。

比べるのもおこがましいが、名のある書き手は、幼い日の光景を異様に詳細に覚えていたり、何でもない日常を卓抜に描出したり、最初から長編の全体像が見えていて、あとはそれを原稿に落とすだけといったことをやってのける。

私は幼い日のことなんてボンヤリとしか覚えていないし、何でもない日常は何でもない日常のままだし、五里霧中のまま書いている。この文章もすでに構成がよく分からなくなっているし、驚くべきことに描写が一切ない。

自分の武器の無さにびっくりする。一体何ならできるのだろうか。

私にできるのは「ピンとくる」ことだけである。正確に言えば、ピンとくるまで考え続けることだ。私はボーッとした人間だが、それはつねに頭のどこかで「ケアってなんだ」などと考えているからである。とにかく、ずっと考えている。

考え続けながら、哲学書を読んだり、小説や詩を読んだり、書店をぶらぶらしたりする。そのうち「ピン」とくる瞬間がやってくる。だいたい、テーマと関係ないことをやっているときだ。事務作業、通勤中、銭湯につかっているときなどに降りてくる。

インプットが閾値を超え、ある程度攪拌されると、ひとつの模様、ひとつのパッケージが生成されるようだ。私の経験では、インプットは一定量必要だが、し過ぎてはならない。考えたことを地道に書き出しながら、ゆっくり攪拌することが大切である。酒造りみたいな感じだろうか。「ピン」は発酵なのかもしれない。

締め切りがあるときは、二つのやり方がある。身体的な攪拌と、他者による攪拌である。たとえば、ジムで思いっきり運動した帰り道などは、ピンときやすい。また、他人と話したり、ノートに自動書記的に考えを書き出していると、芋づる式にピンとくることがある。たとえば「愛がなくてもケアはできる」といった、核になるような言葉だ。

「ピンとくる」は飛躍である。何が言いたいかというと、私が唯一できる「ピンとくる」は、私に記憶力がなく、地理感覚に欠けており、飛躍しがちであることとセットになっているのだ。覚えていないから思いつく。地理感覚がなく、構成を無視するから飛躍できる。つまり、「できない」と「できる」が一体になっている。

私は「書けない」まま書いている。「書けない」によって書いているといってもいい。だったら、それらを「できる・できない」の二分法で表すのはナンセンスだ。

友人に、数時間ノンストップで一人語りできるほど能弁なひとがいる。話の内容もべらぼうに面白くて、そのまま本になるのではないかと思わされるほどだ。しかし、書き手としては寡作だったりする。

「『書ける』と『書けない』は裏表だから、『書けない』を集めれば『書ける』ようになる」と受け取られるかもしれない。だが、私はそういうことを言いたくないと思う。なぜなら、「書ける」が偉いわけではないからだ。それはひとつの様態に過ぎない。

もちろん、その様態のために私は随分長い時間をかけた。でも、「できる」「書ける」といった肯定性ばかりが過剰に求められ、「できない」「書けない」のはダメだと思わされるのは嫌だ。別にできなくてもいいはずだ、と思う。

このような肯定性の過剰がはっきりと現れるもののひとつが、学校のテストだ。できるほうがよい。わかるほうがよい。わかり合えるともっとよい。「わからない」「できない」「知らない」はダメ。なぜだろう。この世界は、わからない、できない、知らないことで溢れているのに。

できないことは悪ではない。わからない、というしかないときはある。すべてを知ることはできない。私が書けるのはほんの少しだけのことだ。私は、このような否定性=「できない」から出発するしかない。

私の「書ける」の傍らには、つねに「書けない」があった。私にとって、書くことは書けないことから始まる。書けないことは書けないまま、その「書けなさ」を友として、私は書くのである。

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鎌塚 亮
読んでいただいてありがとうございます。