自分の頭で考えない
考えることを減らせると、楽になる。
苦しくなっているときは、たいてい考えすぎている。考えているつもりが、悩んでしまっているのだ。「悩まない」ことが大事だといわれる。
しかし、悩まないことなどできるだろうか。少なくとも、私にはむずかしい。
理屈はわかっている。でも、いつも悩んでしまう。
「悩まない」はストイックだ。「ストイック」の語源であるストア派の哲学者たちも悩まないことを説いたが、じつは彼ら自身、政治や戦争について悩み続けていた。
どうすれば、よけいなことを考えすぎないでいられるのだろうか。
ひとつの答えは、自分の頭で考えないことである。
個人の自由が尊重されている社会では、自分の頭で考えることは、有効な戦略のひとつだとされているだけでなく、倫理的にも正しいように見える。
ところが、自分の頭で考えると、人は悩んでしまうのだ。なぜなら、考えても答えの出ない問題の方が、世界には多いからだ。
個人の自由は、必然的に悩める個人を生むのである。
悩む力は、正解のない問題に立ち向かう力そのものでもある。
しかし、正解のない問題に立ち向かうことは、ものすごく大変だ。
自分の頭で考えないことが魅力的なのは、悩み続けることが、あまりにもつらいからだ。
どんなに強い人でも、自分の頭で考えることをやめて、悩むことから解放されたいと感じることはあるだろう。
他人に相談すれば、自分の頭で考えなくて済むかもしれない。
だが、適切な相談相手を選ぶことは簡単ではない。
そもそも、相談できる人がいなければ、どうすればいいのだろうか。
本を読むことはひとつの方法だ。
本は、誰にも話せないことで悩んでいるとき、唯一相談できる相手になりうる。
そして、自分の頭で考える力が残っていないとき、没頭させてくれるファンタジーや「ありのままの自分」を肯定してくれるエッセイ、「答え」を教えてくれる自己啓発書は慰めを与えてくれる。
「考えさせられる」本を読んで、物事の見方を変え、想像力を豊かにすることは、読書における理想のひとつである。こうした理想からすれば、自分の頭で考えないための読書は、堕落でしかないだろう。下心のある集団につけこまれないとも限らない。考える自由からの逃走が、独裁政権を誕生させてきた歴史がある。
しかし、みな、すでに嫌というほど考えさせられている。物事の見方など、毎日変わっている。苦しくなるほど、想像している。
そんな状況で、無邪気に「考えさせられる読書」の力だけを説いても、返ってくるのは感謝や納得ではない。憎しみである。
考えさせられる読書ができるのは、今以上に悩む余裕がある人だけだ、と。
本を愛し、自分の頭で考えることを尊ぶからこそ、自分の頭で考えないことへの渇望をないがしろにしてはならないと思う。
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