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子供の頃とはすこしばかり違う存在として/『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』

2021年4月からの『ゴジラ』新作TVシリーズアニメ(Netflix先行配信)は、ドラえもん劇場版でも屈指の傑作、あの「のび太の南極カチコチ大冒険」の高橋敦史監督なのだな。期待が高まる。以前に書いた「のび太の南極カチコチ大冒険」感想と、ドラえもんについてのいくつかをnoteに載せておく。

《ticktock》(記 2017年3月7日)
 美しいポスターに惹き寄せられて(強調!)『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』を観てきました。ドラ映画を劇場で観るのはいつくらいぶりだろうかしらん。ドラえもん劇場版として実に37作目の本作ですが、リアルタイムで私自身の関心があったと言えるのは、率直なところ7作目の「鉄人兵団」('85)まででしょう。以降はビデオでの視聴はおろかテレビ放映すらも観ていない作品もあります。近年、数本制作されたリメイク版も予告編で心躍るものはありましたが全ては観ておらずじまいです。

 かき氷を作りに南氷洋の氷山へ向かったのび太とドラえもんはそこに遊園地を建てます。『ウォッチメン』でDr.マンハッタンが火星に作り上げた宮殿かのような美しい氷の城です。「しずかちゃんたちもここに呼んでこよう」。カットが変わると、いつもの空き地で夏の暑さにうだってゲンナリしている友人たちがいます。非日常と日常の落差を感じさせる、なんという心地よいカットバックでしょうか。

 氷山で偶然にみつけた不思議な物体の正体を求め、彼らは南極への旅に出る準備をします。いつもの空き地に集まり「どこでもドア」を置き、ノブを回す。ドアの向こうに広がるのは漆黒の闇でした。そう、夏の日差しが眩しいこちら側と違って、向こう側の南極世界は夜なのです。極端な温度差によって、開いたドアから冷気が吹き出してきます。これから「別世界 /非日常に飛び込んで行く」ことを完璧に表した場面です。向こう側に足を踏み出し、ドアを閉める。彼らがいなくなりシンと静まり返った空き地には、冷気の名残が薄っすらと漂い消えてゆきます。ため息の出そうなほどあまりにも美しいショット。

 主人公たちが冒険の旅に出ると、「ああ! 自分はいま、あの頃に『大長編ドラえもん』の冒険でワクワクそして切なくなったあの空気感のなかにいる、確かにいる!」とたまらない気持ちになりました。ノスタルジーを掻き集めてリプロしているのではなく、2017年の『大長編ドラえもん』になっています。同じ劇場内にいる子供たちが漏らす「わあ!」「ドラえもんたちどこいくのー?」という声が鑑賞の麗しいアクセントとして耳をくすぐります。

 主人公たち(=普段テレビアニメ『ドラえもん』を観ている我々)の日常とは、まったく違う異世界での出来事とそこに生きる人々が冒頭に提示され、直後にそれとは対照的に普段通りの日常世界が描かれる。異世界と日常、ふたつの世界がふとした切っ掛けで繋がってしまう。これしかない! といった感のある、まさしく「大長編ドラえもん」の導入部です。

 そしてある目的のために主人公たちは冒険の旅に出ます。その旅路の、少し・非日常(または非日常の中の、少し・日常)が楽しければ楽しいほどに「この旅はいつか終わるんだ」という、どこかくすぐったいような切なさが並走するのです。コレですよ、コレ。登場するゲストキャラクターとの別れや感動的なエピソードが泣けるのではなく、この、いつか終わる「予感」が最も重要なのです。

──だから自分の少年時代の記憶の中にある「大長編ドラえもん」は、どこか寂しげな顔をした作品なのです。できれば本作を観た子供たちの心がいつかこの南極への旅路や異世界探索を思い出すときに、もはや終わってしまった旅への寂しさと、いつの日かまたやってくる新たな旅への希望に溢れんばかりであらんことを。

 重ねて書きますが、今回のティーザー・ポスターや複数種類の本ポスターが、あの優れたイラストレーションとデザインでなかったら、私は関心を向けなかったことでしょう(だって40代のおじさんなのでそこは許して)。それどころかビデオグラムやテレビ放映すらもノーチェックだったかもしれません。

 あれだけ裾野の広い作品なのだから(なんといっても毎年のように20億円や30億円を稼ぎだす人気シリーズなのです)、わたしなどが行こうが行くまいがサハラ砂漠の真ん中に落ちたお台場海浜公園の砂のひと粒ほどにも影響はないけれど、あのポスターデザインの心意気に感じいったのです。その結果、劇場に足を運んだのです。

 本作の物語や舞台設定については、まったくの予備知識なしでの鑑賞だったのですが、ポスターの図版とコピーから、某有名SF映画3作目のアイディアの影響までは予想の範疇内ではありました。「カチコチ」というのは「寒くて凍える→カチコチ」だけじゃなくて「カチコチ→時計の音」というダブルミーニングですよね。しかし、舞台が、H・P・ラヴクラフト「狂気の山脈にて」「無名都市」「アルハザードのランプ」だったことには意表を突かれました。これは思い過ごしではなく、クトゥルフ神話にインスパイアされたとおぼしきアイディアがいくつか登場します。

 ハリポやLOTRと真っ向勝負する劇伴や、サラウンドを活かした効果音はさすが劇場版といった感がありました。子ども連れが何人もいる館内での映画鑑賞はひさびさでした。まだ場内が明るく、薄っすらとした広告しか映っていない上映前のスクリーンからすらも強く発せられるワクワク感! 椅子を底上げする板を抱えて席に向かう小さい子が「ああーっ!わたし幸せ!」と感極まって叫んでいたのがグレートでした。それをみかけたおれも幸せだったよ。

 少しだけネタばらしの余談。「のび太の宇宙開拓史」(’81)の舞台コーヤコーヤ星に住む二本足の象のような生物パオパオが本作にも登場します。物語上の直接的なリンクはありませんが、本作で触れられる「ヒョーガヒョーガ星」の宇宙船が、どこかコーヤコーヤ星の宇宙船のデザインラインを意識していたのが「近い文明圏の機械っぽいな!」と感じさせてニヤリとしたのでした。


《grown up》(記 2016年9月20日)
 台風16号の激しい風雨で傘が壊れてしまった。急に何かしら壊れるたびに、マンガ『ドラえもん』主人公、野比のび太のこのセリフを必ず頭に思い浮かべる。〝うごかない せん風きは、あつくない日につかえる。あなのあいたグラスは、何も のみたくない時に……〟。この傘は雨が降っていないときに使えるな……。

 それにしても野比のび太という名前。あらためて思う、なんという素晴らしいネーミングなのだろう。〝すこやかに大きく、どこまでも、のびてほしいという ねがいをこめた名まえだよ〟(てんとう虫コミックス2巻〈ぼくの生まれた日〉)。マンガ『ドラえもん』には泣ける名作とされる回がいくつかある。それらは大人になればなるほど凄みを感じる。再読するたび年々深みを増してゆくかのよう。

 『ドラえもん』は、いつか日本の住宅街の風景や、家庭や学校という機関がすっかり色合いを変えてしまうまでは新作を作ることができるだろう。なぜなら最終回がすでに描かれているからだ。2020年になっても、2050年になっても、いつでも、てんとう虫コミックス6巻〈さようなら、ドラえもん〉が用意されている。

 いじめっこジャイアンに何度殴られても立ち上がるのび太。その姿をみたドラえもんは安心して姿を消す。幼児期のイマジナリーフレンドが消えるかのように。少年時代が終わるかのように。〈さようなら、ドラえもん〉のあまりにも完璧なラスト。

 しかし私たちは最終回として描かれた〈さようなら、ドラえもん〉に続きがあることをあらかじめ知っている。その直後に続くてんとう虫コミックス7巻〈帰ってきたドラえもん〉では、ドラえもんが残していったアイテム(ひみつ道具)ウソ800の効果で、思いがけずドラえもんはのび太の元に戻って来る。幼少の頃はこれを読んで「人気が出たからつづきが描かれたんだ!」などと感じたりもした。でも、私は知っている──本当にドラえもんは帰ってくるのだ。

 子供の頃に知ったドラえもんというキャラクターは自分の様々な欲望を叶えてくれる機械だった。でも大人になった自分にとってのそれは、「我が子が悲しいときや困ったときや楽しいとき、自分の目が届かないそのとき、いついかなる場合にも寄り添ってくれる存在がいてくれたなら」という親の願いを叶えるキャラクターへと受け止め方が変わっていた。そう、本当にドラえもんは帰ってきたのだ。子供の頃とはすこしばかり違う存在として。キッズ向けの作品を大人になって味わうと違う方向から楽しめる。一粒で二度美味しい。

 ドラえもんというキャラクターのデザイン面でのアイデア・ソースのひとつが、作者である藤本先生(藤子・F・不二雄)宅にあった幼児用「起き上がりこぼし」の形状だというのは、作品が始まる前に既に作品の行方を暗示していて、恐ろしいとすら感じる。前述したように、主人公のび太は実質上の最終回〈さようなら、ドラえもん〉で「何度殴られても立ち上がる」。てんとう虫コミックス18巻〈あの日あの時あのダルマ〉では、病気で床に伏せその後すぐに亡くなることとなる祖母は、庭で転んで泣くのび太にダルマを贈り、〝ダルマさんてえらいね。なんべんころんでも、泣かないでおきるものね。のびちゃんも、ダルマさんみたいになってくれるとうれしいな ころんでもころんでも、おっきできる強い子になってくれると……おばあちゃん、とっても安心なんだけどな〟と願いを託すのだ。

 この〈あの日あの時あのダルマ〉という回は凄まじい。自身が過去になくしたものを出現させるアイテム「なくし物とりよせ機」を使って幼児の頃に大好きだったほ乳ビンを手に入れたのび太はそれを咥え、〝ずうっと子どものままでいたいな。いつまでもいつまでも〟とノスタルジーに耽る。しかし偶然にも同じアイテムの効果で「祖母に贈られたダルマ」が出現するに至り、のび太は、〝ぼく、ひとりでおきるよ。これからも、何度も何度も転ぶだろうけど……。かならず、おきるから安心しててね、おばあちゃん〟と、チャイルディッシュに過日を懐かしむことに浸っていた自身が、真に「なくしたもの」を手に入れることになる。

 子供向け番組が集中する日曜朝の時間、いわゆるニチアサは実のところ2000年の『仮面ライダークウガ』以降、ほとんどチェックできていないのだけれど、この歳になって現在進行形の戦隊やライダーやアニメをあらためて観ると、子供の頃とはずいぶん違って見えるのだろうな。それを観る自分には、むしろ子供の頃と変わらぬ「少年の心」はできれば少なくなっていて欲しいかもしれないな。

のび太「じゃあ、いつになったら りっぱな おとなに なれるの?」
大人になったのび太「さあね…。ひょっとして、一生、今のままかもね」
(『ドラえもん』てんとう虫コミックス16巻「りっぱなパパになるぞ!」小学館刊より)


(2020年10月7日 付記)上記の文章を書いてから四年が経ち、子が大きくなり日曜朝の時間帯の子供向けTV番組「ニチアサ」は、一緒にいくつか観るようになった。ヘッダ画像と途中に挿入している写真の本は「藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん 1」(小学館刊)。子が0歳の頃にページをパラパラとめくるのが楽しくてなんども遊んでボロボロになってしまったもの。いまは平仮名とカタカナが読めるようになって、「手触りが面白いオモチャ」から「本」へとその存在は変わっていた。


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