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子を連れてシン・ウルトラマンを観てきた

 『シン・ウルトラマン』を観てきた。以下は脱線しているかのようで、実のところそうでもない文章なので長文をお許し願いたい。あのシーンやアクションはあれのオマージュだとか、〈考察〉だとかは含まれていない。8500文字以上あるし順に読んで欲しいので目次も設定していないからお時間がある方だけどうぞ。

It's the terror of knowing what the world is about.
Watching some good friends screaming 'Let me out'
恐怖を知ることになるわけだが、それは世界の仕組みについてだ。
良き友たちが「ここから出して」と叫ぶのを眺めてる。

Because love's such an old fashioned word.
And love dares you to care for The people on the edge of the night.
愛が時代遅れの言葉になったが故に──愛は君に、夜の果てにいる人たちへ思いやる勇気を与えるだろう。
(Queen&David Bowie - Under Pressure 拙訳)

 もし宇宙人(外星人)が目の前に現れて「君たちの興味深い文化で空気を振動させる音に感情を刺激される〈音楽〉というものがあるが、享楽的な理解と精神分析的な理解をするためにサンプルをひとつずつ選んでくれたまえ」と言われたら、前者は「ABBA - Dancing Queen」、後者は「Queen&David Bowie - Under Pressure」でいい。〈享楽的な理解と精神分析的な理解〉を1サンプルでできる「Earth, Wind & Fire - September」という曲もあるけれど……。 

 「Under Pressure」はMVもいい。演奏も歌唱もなく撮り下ろしもほぼなく(数カットありそうだけどこれもいまやライブラリ素材でやれるだろう)画素材を切って繋いだだけなのに、世界最高峰のMVのひとつだと思っている。


 映像の仕事し始めたくらいの頃、世の中はスパイク・ジョンズだとかクリス・カニンガムだとかミシェル・ゴンドリーだとかで盛り上がっていて現在進行形のそっちのシーンも刺激的だったけれど、買ったんだか借りたんだかで観たクイーンのVHS二本組MV集で観た「Under Pressure」からの衝撃のほうが大きかった。

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 某日。「おまえさんのまちは知らんけど、このまちのルールでは〈信号のない横断歩道で渡ろうと待ってる歩行者やストライダーの子たちがいるのに一時停止どころかスピードも落とさない車〉には予告なく発砲しても罪に問われないことになってねん、それとも無免許かあんた、文句あんなら自分でポリ呼べや、道路交通法第38条、3ヶ月以下の懲役または5万円以下の罰金で違反点は2点、9,000円の反則金払っとけボケ」と言いたくなる出来事があった。

 信号のない横断歩道の前の歩道には私の自転車の横にストライダーに乗った幼児が二人、子連れの親子がひと組停まっていた。数秒前まで横断歩道の40〜50メートルほど手前で停車して誰かを降ろしていたその車が発進してそのまま走り去ろうとしたので、私はプチッとキレてしまい「とまれや!」と口にしたら、その車は横断歩道を越えてから停止して、運転手が車から降りてきやがった。どう着地するつもりで降りてきてんだこの子はと思っていたら「渡るか渡らんかわからんやろが!」とイキって突っかかってきた。横断歩道を渡るのを待っていた横にいたひとが「警察呼びましょうか?」と私に言う。そのひとに「いや、ええですわ、ポリ呼ぶとこの兄ちゃんかわいそうですわ」と答えたあと、「とまるとこ、そこちゃうやろ。じゃあ今から渡るからよ、おまえは行っとけ」と言うと運転手は黙って車に戻っていった。その車が家族を乗せそうな大きなSUVだったので余計にキレたのもある。

 横断歩道で止まらない車とこれまで4〜5回モメたことがあるけれど、どうして彼らは「自分が喧嘩を売られた」と感じるのだろう。信号のない横断歩道で速度を落とさないまたは一時停止しないのは、私の中では高速道路で300km/h出すより罪が重いし、心情的には現行犯じゃなくても一発免停に匹敵する運転だ。意味なく無駄なところに書かれた横断歩道などひとつもない。すべての場所に信号機が設定されていてもおかしくはない。「飛び出し注意」だとか「幼稚園があります」だとか「スピード落とせ」だとか「スクールゾーン」と書かれた看板はそこに置かれた意味が必ずある。

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 子供の食玩やプラモをつくる機会がある保護者の方は早めにタミヤのニッパー買っとくと楽なのよ。バリ(ランナーからパーツをもいだあとのトゲのような出っ張り)とか気にしなくてよくなる。これは模型趣味の友人に情報をいただいて助かった。ただ、タミヤのニッパー、特にゲートカット用薄刃ニッパーは切れ味が鋭い(さすが田宮だ)ので、幼児に渡すのは勧めない。先にパーっと保護者がランナーからバリが出ないようにパーツを先に切り取ってしまうのがいいと思う。

 模型趣味の友人からは嵌め込み式のプラモデルのパーツを取り外せるパーツセパレーターというツール(今年の5月に発売したばかりだ)も教えてもらった。これまではデザインナイフや爪楊枝でなんとかしていたのでこういうのがあると助かる。エントリーグレードのガンプラといい、ユーザーの裾野を広げようとしている近年のバンダイの姿勢には好感を抱いている。

 ブロック遊びが好きな四歳五歳児には、たいていのスーパーで扱っている食玩「ほねほねザウルス」がお勧めだ。なにせ安い。スーパーに買い物に行くたびに食玩ねだられても198円で済む。毎回500円だと自分の刺身が買えなくなる。〈シリーズ第26弾!〉とかでも過去ラインナップと接続の互換性のあるパーツがほとんどなのでそこは気にしなくていいし、(これは一般論としては断言できないが)レゴより「自分オリジナル」の組み立てがしやすい。レゴは幼児向け「デュプロ」と「ベーシック」の間に深い谷がある。パーツを取り外すための道具もなくはないけれど万能ではない。ベーシックの小さいパーツは大人でも外しにくいし(硬いと歯で外すようになるので喉に詰まる不安がある)、デュプロでいろいろ作ってたけれどベーシックで独自パーツや複雑さに壁を感じたのも目にしている。レゴの幼児向けデュプロとベーシックの間にあるギャップに関してはめっちゃ語れる気もするが長くなるので割愛する。追記しておくと「ほねほねザウルス」にはベストセラーになっている本の展開もある。玩具と読書の両側面から世界を広げられる。「子供が本を読まなくて」と悩む保護者の方にも勧められる。


 「説明書通りに完成させた成功体験、広大な可能性」と「制限はあるが行使しやすいクリエイティヴィティ」のどちらを優先するか(または順序をつけるか)の違いといってもいいかもしれない。レゴに後者を期待するひとも多くて、期待通りにいく場合もあるし肩透かしの場合もある。そこに失望などするくらいなら他に手段はあるという話だ。

 私が子供の頃は、レゴなどとても手が出る製品ではなくて(あの時代は並行輸入でもそれほど入ってきてはいなかったのではなかろうか。そしてレゴは最近の円安もあるのか、さらに高価な製品になっている。)、学研ニューブロックを買い与えられてそれでたくさんのものを作った。十歳くらいまで遊んでいたのではなかろうか(ただし私の場合は十四歳くらいまでネンド遊びをしていたので一般的ではないかも)。子の場合も児童館でニューブロックには世話になった。

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 ようやく本題だ。子を連れて一緒に『シン・ウルトラマン』を観てきた。上映時刻が合うのが梅田駅直通で行ける大阪ステーションシティシネマだったので駐輪場もあって自転車も停めやすいし、観る前に風の広場で腹ごしらえもしやすい。子は、普段は食べない納豆巻きを自分で選んで食べた。特別な日だと実感していたのかもしれない。「楽しみすぎて心臓が飛び出そうや」と言っていた。

 館内が暗くなり流れ始めた様々な予告の中に東映三角マークのあと他の予告と違うやけに静かな『シン・仮面ライダー』特報があって、子が「わあ」と口に出して、カラーのロゴがあの音で出てきて、本編冒頭ロゴと効果音とウルトラQの音楽で子が劇場に響くほどの声で「うわーっ!」と叫んだのが、ぜんぶ一緒くたにパッケージされてるんだよな。想いでの真空パックだよ。その日は夏日みたいな天気で私は汗かき自転車を漕いでいて、「あっいまから行けるな」と予定をその場で立てスマフォで「どの席が適当か」を真剣に考え予約し、空いてる駐輪場を探し、移動時間と上映前の腹ごしらえの目算を立て、人混みの中で子の手を引き歩いて、それで得られたつつましい想いでだ。50も60も事前にあらゆるパターンを想定しておいて、そこからどう転んでも「子が」楽しく過ごせるように適切な作戦を立てて、得られるのは、ひとつかふたつの記憶。でもそれが残るとは限らない。

〈子供たちの子供たちの子供たちへ/大人になれば世界は違って見えるかな〉
〈子供たちの子供たちの子供たちへ/大人になれば世界は少し小さく見えるかな〉
〈明日になればたいていことは忘れてしまうかな〉
(PIZZICATO FIVE「子供たちの子供たちの子供たちへ」)

 北欧製の安全性も値段も高くデザインされた玩具よりも、空いたペットボトルに色塗って加工したなんだかわからないモノや夏祭りでクジを引いたなんてことない小さなゴム人形のほうが気に入ってよく遊ぶことも少なくない。そんなことの繰り返しだ。愉しい瞬間だけの選択と集中なんてできやしない。「あんときは普段ならからあげくんやアメリカンドッグなのに何故か自分から納豆巻きを食べると言ったんやで」と、もし何年かあとに子に伝える機会があったら「(なにいってるんだ?)」だろう。でも私はいつか何もかもわからなくなる寸前までずっと「納豆巻き食べてたなあ」と記憶しているだろう。

 画面と子の反応半々で見ていたので、私自身は映像中の細かいディテールを見逃してるとこも多い。

 で、これは忖度なしにいうけれど、この作品は相当に良いのではないか。115分の映画としては正直なところダイジェスト感はあったけれど、とにかくポンポコポンポコ何かが起こるので未就学児が飽きることもない。

1)最初の20数分で怪獣が二体も出てきてウルトラマンも出てくる。
2)某星人回。
3)某星人回。
4)強敵怪獣と最後の戦い。

 1〜4までシームレスに繋がっているが、実はおおまかな構成が、最初の『ウルトラマン』('66)と同じく30分枠テレビ番組四本分だ(もし幕間にサブタイトルやアイキャッチが入っても違和感はないだろう)。2時間弱の1本の物語映画作品としての緩急をある程度は諦めて、バランスをとりつつもこの構成にしてくれたことに感謝したい。信号のない横断歩道で停まってくれているのだ。舞台説明とウルトラマン登場からラストまでジェットコースター的にハイウェイ的に流れるように整えられて構成されていたら未就学児は途中で飽きてしまったかもしれない。

 子はわりと偏った知識かもだけれど、『シン・ウルトラマン』冒頭『ウルトラQ』メインタイトルM-1T2がかかった瞬間に劇場内に響くほどの声で「うわーっ!」と叫んでいた。冒頭の15分程度はそのうち宣伝で無料公開されるだろうから(たぶんね)多くは触れない。ラストのウルトラマンと◯◯◯◯の会話場面では子は小声で私に「◯ー◯ィは◯◯ィーになったんやな」と話しかけてきた。私は「うん、そうやで」と答えた。

 115分の長編映画としては、近年の価値判断なら突然で呆気なく感じるだろう閉幕も、子はエンドロールで拍手しながら主題歌「M八七」を歌ってたのであれでいい。自分はもともとスパッと終わるラストが割合に好きというのも勘定に入れたとしても(『ジュラシック・パークIII』のラストは最高だ)。

 「巨神兵(オーマ)が降臨者のユニットをサイコフレームみたいに浮かべてガンド・ロワを呼んだらそれがアクシズになって空に浮かんでフランキー堺の世界大戦争な映画でしたね……物干し台も映ってたし……」みたいなことはいくらでも言いたくなるんだけど……でも、とにかく横の席に座る子が「うわっ」だとか「あれはあれなんちゃう?」とか「すごいな」だとか何度も口に出して、「映画館は静かにしなくちゃいけないで」といちいち諫める回数が多かったことで満点だ。

 エンドロールが流れた瞬間に子が拍手をした。別に促したわけではない。周囲の反応だとかそれをやっていい雰囲気だとかはまったく気にせずに手を叩いた。大人だってさ、深夜の先行初回上映など祭りの雰囲気以外での拍手は躊躇するものだよ。私が周囲だとか雰囲気だとか気にしないで初日でも初回でもない日の上映でラストカットが終わった瞬間に躊躇せず拍手をしたのは、これまでポール・トーマス・アンダーソン『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の「終わったよ」のときだけだ。別に家でなにか映画を観たあとにも拍手とかさせてきたわけじゃないんだけどな。公園で他の子が何か地面に絵を描いたあととか、鉄棒にぶら下がれたとか、そういうとき私は拍手をしてきた。それを見ていたのだろうか。なんというか不思議な気持ちになった。「私はこれまで間違ってはいなかった」とひとり感動していた。

映画館からの帰り道に公園に寄り、事前に買っておいたフィギュアをバッグから出して子に渡す。iPhoneから流した主題歌「M八七」を聴きながらさっそく遊び始める。

 『シン・ウルトラマン』は子に「観せる」と最初から決めていたので私自身は先に観た方々の感想をネタバラシは気にせず読んでいたのだけれど、やけに評判が悪かった「最後の敵のCGI質感」よりも、戦闘場面でのウルトラマンのリアクション(特に「ヤラレ」)で、「異形の存在のぎこちない動きがうまく表現できてないのではないか」と感じたアニメートが何カットかあった。しかし飛び人形や飛び人形の回転はファンタジックでとても好きだった。ウルトラマンが初めて禍特対へ振り向くとこ(横須賀のあとかな)で、ウルトラマンの顔・仕草が神永にみえた。斎藤工さんもあのウルトラマンのカットを担当されたかたも(造形物なのかCGIなのかはわからないけれど)すごいな!と感じた。山本耕史さんの演技は世評通り素晴らしかったけれど、個人的には禍特対の室長を演じた田中哲司さんと首相補佐官の利重剛さんにグッときた。樋口真嗣監督には日本より予算に余裕があるだろうアメリカでSF映画を撮って欲しいなと感じた。

 バジェットは別にして尺が115分ではなく150分許されてたら、どんな組織に追跡されても痕跡を残すはずはないと禍特対の田村班長から能力を評価されている神永のパーソナリティ、その後の浅見との関係性、ネット有名人になってしまった浅見へのネット住民の下衆い反応やそれについての外星人による人類の愚かさへの言及も、思惑の異なる二人の外星人とウルトラマンとのテーゼとアンチテーゼの応酬も、終末が近いのに日常を過ごすしかない『世界大戦争』('61)や『日本沈没』テレビドラマ版(74〜75年)的描写も、己の無力さに絶望しそこから回復する滝も緻密に描けたはずなんだけれど、未就学児は150分の映画は集中力が続かず観られない。この作品は『ダークナイト』(152分)じゃないんだ。分厚い説明書で完成まで何時間もかかるレゴではなく、ほねほねザウルスなのだと感じる。

 『シン・ウルトラマン』に関しては115分の長編映画としての評価は私には無理だ。子連れでの感想しか抱けない。ただ一点「ここは編集か撮影の選択ミスではないか」と指摘したい点があって、自身の尻を叩いて発奮する癖をもつ浅見が登場し、そのアクションを最初にやる場面から尻のアップのカットがあるところだ。あそこは人物フルショット正面(または背面ウエストショット)から撮って、同室の禍特対スタッフ(と観客)が「パンッ!(なんの音?いきなりなにやってるんだ?)」とリアクションが欲しかった。尻のアップは同アクションの二回目以降でいい。忙しくて風呂に入れず自身の体臭(ラストへの重要な布石)を気にする浅見も、隣席の船縁が「別に気にならないですよ」と前フリがあればよかったとは感じる。でもまあこんなのは「タラレバ」に過ぎない。◯◯化するのも浅見ではなく田村班長だった方が〈2020年代の挑戦〉としてセクシーに、新世紀にふさわしいシチュエーションに撮れたはずだとは妄想する。

 『シン・ゴジラ』と『シン・エヴァンゲリオン』と『シン・ウルトラマン』と『シン・仮面ライダー』。「シン・」シリーズのうち公開済みの三本観た上での感想だけれど、焦点がぜんぶ違う(ターゲット層・物語構成・演出)のだろうきっと。単なるリメイク/リ・イマジネーションではなく、それぞれの欠落が他ではそのまま美徳だったり、それぞれのキマってる部分が他では欠陥だったりするのだ。

 で、たぶん後に控えた『シン・仮面ライダー』はものすごくストレンジな、変な映画になると想像する。変というのは欠陥を意味しない。異形の作品ということだ。作家・庵野秀明氏自身の私的な陰と仮面ライダーというキャラクターの陰の部分とが奇妙に融合された、極めて私小説的な(それでも『式日』の頃とは段違いにプロデューサー・経営者視点の経験値が積まれた)異形のフィルムになるのではないか。仮面ライダーは自身の異形をマスクで覆ったヒーローだからコンセプトとして純度が高い。

 話題が過ぎ去るのが早いネットでは既に旧聞に属する映像ではあるかもしれないけれど、少し前に公開された『シン・仮面ライダー』の特報。クレジットを知る前に「庵野秀明編集だ」と確信させられるのは、やはり庵野氏の、画(フレーミングやアングルやコントラスト)のチョイスと、カッティングのエッジィさはスペシャルな才能だなと再確認した。バイクのヘッドライト→夕陽→アーケード天井の照明→唐突に挿入される陽光を反射した海面→だとか、カットごとにある光源に注目してもいいし、二号ライダーの不穏な表情のバストアップからの完璧に1フレームも無駄のない繋ぎの変身後のポージング。あの繋ぎは尋常ではない──映像の編集には実は〈正解〉がある、とくにアクションを伴うカッティングには──正解が見えていないと繋げない。タイトルが出る前ラストカットの、近所の山みたいな(失礼)ところをこちらへ向かって歩いてくる1号ライダーの、動きの途中から動きの途中までみたいなカットのIN点とOUT点も凄い。予告編の編集データがトラブルでもし途中で壊れて最初から編集やり直しても1フレームも変わらないものができるんじゃなかろうか。

 自監督作とはいえ、いや、ほんと撮った画を切って繋げて並べただけで特別なことはしていないのに、庵野印が押されているのは凄いと思う。物語作家とはまた別に、編集の天才だ。映画の予告編は、基本的に本編監督がやらないほうが良いものができる。なぜなら本編監督は撮った画を捨てられないものだし、本編の物語を公開する前に制作者が心情として見せたいモノと観客が期待して見たいモノの快楽はだいたいにして完全には一致しないものだ。観客が「あそこがよかった」に対して、監督が「本当に観てほしいのはあそこなんだけれどね」というギャップはよくあることだ。『シン・ゴジラ』でも、東宝がつくった最初の予告編より第二弾の庵野予告のほうが遥かによかった。これは特異な才能だと思う。

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 『シン・ウルトラマン』未見時に、個人的に期待と不安と思い入れがあるという部分があって、そこに関してはリンク先の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想で触れた。

現実対虚構ではない。虚構と現実が手を取り合い並んで駆け出すこともできる——いつか虚構が現実を助けに参上することもあるだろう。ヘアッ、デュワ、シュワッチ!とか言って。ひとが虚構=物語の中で描かれた真実味に助けられることは現実にある。



 劇中でウルトラマン(神永)が「狭間(はざま)にいたい」と漏らすのは、アニメと特撮のこと、もしくはプロデューサーとディレクター、またはアニメ特撮アーカイブ機構ATACでの活動のように過去と未来の狭間──とは(シンプルに・しごく・当然に)感じたけれど、これはあまりにも作家論・文芸批評的に依りすぎたよくない読解だ、映画は物語や作家のスタンスではなく、まずは画と音で語るべきだ、すみません。

 でもね、ウルトラマン(虚構)は神永(現実)に命を与えて去っていった。さあ、次は『シン・仮面ライダー』だ。

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